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阿部正弘の墓はどこにある?イケメン老中の眠る谷中墓地を紹介

2018年3月19日


 

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幕末時代に幕府中枢で活躍した老中首座(ろうじゅうしゅざ)阿部正弘(あべまさひろ)の墓は谷中霊園(やなかれいえん)にあります。

谷中霊園には、福山藩阿部家(ふくやまはんあべけ)の墓所があります。

今までは一般には公開されていませんでしたが、今は公開もされ参拝できるようになったようです。

今回は、イケメンの評判も高い幕末の名老中・阿部正弘のお墓のことを調べてみました。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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幕末のイケメン老中阿部正弘の履歴

 

阿部正弘は幕末期に若くして老中首座になった優秀な政治家でした。

その功績はあまり知られていませんが、

海軍伝習所・洋学所などを設立など近代化のために

必要な人材を養成する期間の設置や、幅広い人材の登用を行いました。

 

阿部正弘の重用した人材は、幕末期に活躍した人が多く、

その人を見る目は本当に確かであったといえるでしょう。

また、ペリー来航の情報を得ると、その情報を幕府内だけでなく

広く朝廷、各地の大名にまで公開し難局打破の方策を求めました。

これは、現代から見れば賢明と思えることでしたが、

幕藩体制の根幹を揺るがすことになり、間接的に井伊直弼(いいなおすけ)安政の大獄(あんせいのたいごく)を招いたともいえます。

しかし、島津斉彬(しまづなりあきら)と協力し外圧に晒された日本の問題解決に取り組み、

一定の成果を上げた幕末期の政治家のひとりです。

 

福山藩阿部家歴代の墓が並ぶ谷中墓地

 

谷中霊園には福山阿部藩歴代のお墓のある墓所があります。

阿部正弘の他には、阿部正弘よりも前に老中となった8代目の正右(まさすけ)

9代目の正倫(まさとも)、10代目の正桓(まさたけ)と4つお墓が並んでいます。

ひとつの藩の歴代藩主のお墓が一カ所に集まっている墓所は東京では珍しく、

歴史的にも非常に貴重な物であると評価されています。

その他、谷中霊園には初代の正邦(まさくに)、2代目の正福(まさよし)、5代目の正精(まさきよ)のお墓があります。

 

激動の幕末維新を分かりやすく解説「はじめての幕末

 

備後福山藩主としての阿部家の歴史

 

幕末の名宰相である阿部正弘を輩出した備後福山藩の阿部家の歴史は、

5代目の阿部正邦が下野国宇都宮藩(10万石)より入封したことで始まります。

石高は変わらず10万石です。

これ以降、廃藩置県(はいはんちけん)で藩が消滅するまでの10代、161年間の間、

備後福山藩主として同地を治めました。

 

歴史のある阿部家は譜代大名(ふだいだいみょう)として、幕府中枢の政治に関わることが多く、

藩政は今一つ熱が入らなかったようで、阿部家が治めるようになると大きな一揆も発生し、

没落し離農する農民も多く、一部の豪農による田畑の寡占(かせん)が発生するなど、

地元の治世は高い評価ができるものではなかったようです。

これは、中央政権に関わることにより藩の出費が多くそのため、

農民に対し厳格な検地をおこなったことが原因であると分析されています。

 

阿部正弘の墓には大正天皇も訪れた

 

阿部正弘の墓のある谷中霊園は寛永寺(かんえいじ)の管理する霊園です。

お墓は霊園内の石塀に囲まれた門を通り、入っていき、その左側の一番奥にあります。

墓前には大正天皇が訪れたという記念碑も立っています。

以前は一般には公開されていませんでしたが、

今は周囲に分譲された一般のお墓もあり、普通に訪れることの出来るお墓です。

   

阿部正弘と谷中墓地の奇妙な因縁

 

阿部正弘は22歳で寺社奉行になり、そのときに感応寺(かんのうじ)の僧侶たちの処断を行っています。

この感応寺のかつての敷地が今、阿部正弘が眠る谷中霊園の敷地です。

何とも因縁めいた話です。

 

徳川家斉時代に感応寺の僧侶が、大奥女中と乱交を極めた事件があり、

その事件を寺社奉行として裁いたのが阿部正弘です。

阿部正弘は、将軍である(いえなり)の責任問題を回避しながら、

僧侶の処断を行い、大奥の処罰は一部に限定したものとしました。

事件が大きく広がらず将軍の責任問題まで波及しなかったのは、

阿部正弘の手腕であったと評価されました。

これにより、第12代将軍・徳川家慶(とくがわいえよし)にもその高い能力が注視されることになり、

若くして出世街道を走るきっかけになったとも言われています。

 

阿部正弘の墓のある谷中墓地へのアクセス

 

阿部正弘のお墓のある谷中霊園は、JR・京成線日暮里駅から徒歩6分の位置にあります。

問い合わせ先は谷中霊園管理所(03-3821-4456)となっています。

阿部正弘のお墓は霊園内の渋沢栄一(しぶさわえいいち)のお墓の左にある石塀に囲まれた門の奥にあり、

一般にも開放されていますので参拝は可能です。

阿部家の墓所の左側の列の一番奥にあるのが阿部正弘のお墓となります。

この石垣の中は以前、阿部家専用の墓所でしたが今は、一般のお墓もあります。

阿部正弘の戒名は「良徳院殿高誉信義節道大居士(りょうとくいんでん・よしんぎせつどう・だいこじ)」となっています。

 

幕末ライター夜食の独り言

 

歴史上の有名人のお墓は、一般に公開されていないこともあります。

篤姫のお墓などは、普段は参拝することができません。

阿部正弘のお墓について以前は石塀の中全てが阿部家所有の墓所でしたので、

関係のない一般の人が立ち入ることはできませんでしたが、

今は一般のお墓もあり、普通に入ることができ、参拝できます。

もし、歴史に興味があれば、阿部正弘の眠る谷中霊園に一度行ってみるのはいいかもしれません。

ここには、彼の他にも多くの歴史上の有名人のお墓があります。

 

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