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島津斉彬は日蓮正宗に帰依していたの?

2018年3月28日


 

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島津斉彬(しまづ なりあきら)と言えば、薩摩藩の下級武士だった西郷隆盛(さいごうたかもり)大久保利通(おおくぼとしみち)など、

明治時代に活躍した人物を輩出した人で有名です。

西洋の知識を取り入れて軍艦の建造や反射炉の建設、

教育に力を入れるなど改革の人でも知られています。

 

幕末で改革に力を入れた島津斉彬ですが、

斉彬が実は日蓮宗に帰依していたということを知っている人はいますか。

島津斉彬と日蓮宗との接点が見当たらないので信じられないと感じる人がいると思います。

この記事では、最初に島津斉彬が日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)に出会った経緯と日蓮正宗について取り上げます。

 

次に、島津斉彬が日蓮正宗に帰依した狙いについても取り上げています。

教科書で取り上げられない島津斉彬の裏の顔として仏教を排斥したこととその理由について紹介します。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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島津斉彬はどのような経緯で日蓮正宗に出会ったのか?

※写真はイメージです

 

島津斉彬と日蓮正宗との接点について取り上げます。

八戸藩主の南部信順(なんぶ のぶゆき)の勧めで帰依しました。

南部信順は島津重豪(しまづ しげひでの十四男で、斉彬の大叔父に当たります。

南部信順は日蓮正宗の前身である大石寺に帰依していたことから、

その勧めによって斉彬は養女・篤姫(あつひめ)とともに帰依したと言われています。

 

日蓮正宗は1253年に日蓮が何妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)の宗旨を建立したことが始まりです。

日蓮は著書『立正安国論』で鎌倉幕府に弾圧されましたが、

この著書は元寇(げんこう)という予言が当たったことで知られています。

日蓮の没後、日蓮の精神は日蓮正宗の総本山である大石寺に伝えられています。

 

総本山である大石寺は1290年に建立されました。

江戸時代、後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の孫であり、6代将軍徳川家宣(とくがわ いえのぶ)の正室天栄院の養子が、

大石寺の法主として迎えられるなど皇族や将軍の結びつきが強くなります。

 

島津斉彬が日蓮正宗に帰依した本当の狙いは?

 

「1. 島津斉彬はどのような経緯で日蓮正宗に出会ったのか?」で取り上げたように、

総本山の大石寺は皇族や将軍と結びつきが強い寺でした。

島津斉彬が日蓮正宗に帰依した本当の狙いについて考えたいと思います。

 

はじめに、島津斉彬が薩摩藩主になった頃の江戸幕府について取り上げます。

江戸幕府の将軍は第13代徳川家定でした。

徳川家定は病弱で後継ぎがなかったことから後継者争いが起こりました。

島津斉彬・松平春嶽(まつだいら しゅんがく)らは徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)を推します。

 

一方で、大老の井伊直弼(いい なおすけ)は血筋を重視して紀州藩主だった徳川慶福(とくがわ よしとみ)を推しました。

島津斉彬は日蓮正宗に帰依した狙いとして次のことが考えられます。

皇族や将軍との結びつきが強い日蓮正宗に帰依することで、

14代将軍に徳川慶喜を推薦しようとしたのではないかと考えられます。

 

将軍後継者争いの結果、14代将軍は徳川慶福(のちの家茂(いえもち))に決まりました。

敗れた徳川慶喜派の島津斉彬・松平春嶽らは処罰されました。

井伊直弼の反対派の処罰のことを安政の大獄(あんせいのたいごく)と言います

 

こんにちは西洋

 

 島津斉彬は薩摩では仏教を排斥していた?

 

まず、仏教を排斥することを廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)と言います

廃仏毀釈といえば、日本史の教科書では

明治時代の神道国教化がきっかけになったと書かれていて、

ほとんどの人が実際の授業では明治初期の仏教排斥運動と学習したと思います。

実際に明治時代より前に仏教を排斥した出来事がありました。

 

水戸藩では大砲を製造するという口実で、

徳川斉昭(とくがわ なりあき)藤田東湖(ふじた とうこ)会沢正志斎(あいざわ せいしさい)とともに寺院に釣鐘などを供出させました。

薩摩藩では水戸学や国学が盛んで仏教が排斥されていたことがありました。

島津斉彬が仏教を排斥した本当の理由について、次の節で取り上げます。

 

島津斉彬は仏教を排斥した本当の狙い

 

仏教を排斥した本当の狙いについて、贋金(にせがね)作りであると言われています。

贋金を鋳造する理由としてどのようなことが挙げられるのでしょうか。

島津斉彬は財政再建策として鋳銭(じゅせん)事業を計画しました。

斉彬は事業直前に死亡しますが、死去後に薩英戦争の賠償金の支払いで多額の資金が必要になると、

職工4000人を抱える大規模な事業になりました。

鋳造した金額が290万両になったという記録が残っています。

   

幕末ライターオフィス樋口の独り言

 

 

今回は「島津斉彬の事実」について取り上げました。

島津斉彬が日蓮正宗に帰依したことは大河ドラマでも取り上げられていないので、

ほとんどの人が知らないと思います。

 

実際、島津斉彬は本当の日蓮宗の信者ではありません。

帰依する本当の狙いとして、14代将軍に徳川慶喜を推薦した際、

将軍や朝廷の根回しのために日蓮正宗に帰依したのではないかと考えられます。

 

最後に、ほとんど知られていない廃仏毀釈について取り上げます。

寺院を排斥することで、釣鐘や仏具から雁金を製造することができました

雁金は殖産興業・薩英戦争の賠償金・倒幕の元手になったと言われています。

廃仏毀釈と言えば、明治初期の出来事として覚えている人がほとんどで、

江戸時代にあったことはほとんどの人が知らないと思います。

 

また、島津斉彬も廃仏毀釈を薦めていたことや

贋金の製造についてはほとんどの人が知らないと思います。

今回は薩摩藩だけでしたが、他の藩で財政再建や大規模な事業に雁金が使われている可能性があります

これから他の藩にも注目したいと思います。

 

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