福山藩主としても阿部正弘は、地元の福山藩の領民には少し迷惑な君主でした。阿部家は名門の譜代大名であり、幕政に関わる人材を輩出し、地元の藩政よりも、幕政に取り組むため、そこに人材を送り込むことに熱心な家だったのです。藩政よりも幕政に力を傾注していました。そのため、阿部正弘も福山藩の領民にとっては決していい藩主ではなかったかもしれません。今回は、福山藩主としての阿部正弘を考察していきましょう。
この記事の目次
10代160年も福山藩を支配した阿部家は領国経営に熱心ではなかった?
阿部家は徳川家康の祖父の時代から徳川家の家臣と言う生粋の譜代大名です。幕末時代に老中筆頭を務めた阿部正弘以外にも、徳川家光の時代には老中を務めた阿部忠秋がおり、その他にも多くの人材が幕政の中枢を担うために動いていました。
阿部家5代目の阿部正邦が10万石で福山藩に入りその後廃藩置県までこの地を統治することになりました。しかし、歴代の藩主は領地経営に熱心でなく、しかも幕政に参入するための費用ねん出のため、領民にはかなり厳しい税の取り立てを行いました。
前藩主時代には起きなかった一揆も阿部家が藩主になると、福山藩全域で、一季が頻発するような事態になってきます。福山藩の領民にとっては名君とは言い難い藩主が続いていました。阿部家の歴代藩主の大多数は幕政の中で活躍することをめざし、参勤交代せず「江戸定府」という江戸に住み続けるという形をとっていました。
当然のことながら、領地の経営、藩政にはあまり熱心なわけがありません。阿部家の藩政に対する不熱心さと、幕政への傾注が福山藩の領民を苦しめていたわけです。阿部正弘も阿部家の伝統を継ぎ、しかも若くして老中筆頭まで出世しました。しかも、藩どころでは無く、外国船が頻繁に日本に来るなど、国家として危機の時代に幕政の中枢に立ってしまったのです。
阿部正弘は福山藩に帰った事がある?
江戸育ちの阿部正弘ですが1度だけ福山藩に帰ったことがあります。本人としては「帰った」と言う感覚があったどうかは分かりませんが、一応は福山藩の藩主なのです。福山藩の領主である阿部家ですが、歴代藩主は参勤交代せず「江戸定府」が大多数です。藩主は江戸に住み続けました。
幕政に関わるために、江戸にずっといたわけです。阿部正弘江戸育ちの江戸住まいです。阿部家の伝統通りの生い立ちです。阿部正弘が福山藩へ「帰った」のは藩主となった1836年の翌年1837年の一度だけです。それ以降はずっと江戸で幕政に関わっていました。
関連記事:阿部正弘とはどんな人?絶対倒れないヤジロベー政治家に迫る
関連記事:阿部正弘の家紋鷹羽紋とはどういう家紋?
阿部正弘が福山藩で造った誠之館はどんな学校だった?
幕政中心で藩政に熱心ではなかった阿部家ですが、阿部正弘は福山藩に「誠之館」という藩校を作りました。福山藩には以前から「弘道館」という藩校がありました。しかし、時代の大きな変化の中で、旧来の教育では、時代の変化に対応できる人材を育成できないことに、阿部正弘は気づくのです。
「誠之館」の目的は変化していく時代に対応できる人材を養成することです。そのため、学科には従来の武士の学問、教養である「漢学」「国学」などに加え「洋学」「医学」「兵学」が設けられました。特に、兵学では、従来の弓、槍、剣だけでなく銃砲の扱いに関する教育を行いました。そして、卒業者の成績に応じて役職や給与を決定したのです。「誠之館」は、かなり近代的な明治以降の軍の教育機関によく似た形になっています。幕末期、阿部正弘の行った教育改革により福山藩からは、菅茶山や頼山陽などの優秀な人材が出てくることになります。
誠之館開学の時の阿部正弘直筆の御諭書きが立派
阿部正弘による誠之館開学の時の「御諭書」は今に残っています。その内容は、現代の教育機関でも通用するくらいの筋の通った立派なことが書かれています。学問とは先人が積み重ねたものを学び、そして更に前進させていくものであり、そのために「誠之館」を造ったのだと書き記しています。この「学問」に対する考え方は今でも通じるものでしょう。そして、人は教育によって「人材」になるという趣旨のことが書かれています。文武両道をめざし研鑽をつむことの従量制が説かれています。
「御諭書」は幕末と言う江戸時代に書かれた物です。日本の思想は儒教的な考えが支配しているので今読めばその色合いが強いなと思うかもしれません。ただ、その中でも決して間違ったことを書いていないのは事実です。時代を超え教育論として通用する内容のことが書かれています。
洋式帆船をジョン万次郎に造らせた阿部正弘
阿部正弘は土佐藩の漁民で、漂流しアメリカから帰国したジョン万次郎の協力で洋式帆船を作り上げました。ジョン万次郎は、アメリカで英語だけではなく先進的なアメリカの情報を得て帰国しており、洋式帆船がどのような物か知っていました。アメリカの船員に救われ、洋式帆船をよく観ていたのです。阿部正弘はそのジョン万次郎を身分に関係なく重用しました。ジョン万次郎が非常に貴重な人材であることを阿部正弘は見抜きます。
江戸時代にはロシアに漂流した大黒屋光太夫のように、貴重な情報を持って帰国した漂流民はいました。しかし、彼らは帰国後、時代の波の中に消えていきます。その情報は何ら生かされませんでした。
しかし、時代の巡り会わせと、阿部正弘という名宰相存在が、帰国後のジョン万次郎を歴史に名を刻み続ける存在としていくのです。阿部正弘はジョン万次郎に洋式帆船の模型を造らせます。それを元にして福山藩は「順風丸」と言う洋式帆船を完成させるのです。ただ完成したのは1862年であり、阿部正弘の死後のことでした。
阿部正弘の死後官軍に鞍替えした福山藩の明治維新とは?
福山藩は、幕末期には幕府軍として戦闘に参加します。生粋の親藩ですので当然でしょう。福山藩は藩政がないがしろにされ、財政は破綻していますので、十分な軍部が整えられないのです。そのような状況で、福山藩は第二次長州征伐に出兵します。この出兵前に、火薬庫の管理がまずく、武器庫保管庫が爆発したので、上京は更に悪化しています。
しかも、長州藩の指揮官は大村益次郎です。
元村医者でありながら、軍事における天才であった大村益次郎は当時最高の陸戦指揮官であり、薩摩の西郷隆盛の存在が彼によって薄まるくらいの天才でした。当然連戦連敗で、福山藩の軍勢は福山に帰還します。逃げ帰ったということです。
そして大政奉還の後、今度は福山藩が長州藩に攻め込まれます。北、西、南からそれぞれに福山を包囲し、砲撃を開始しようとしたとき福山藩は降伏します。結果として、福山は戦火を逃れますが、今度は官軍の尖兵にさせられてしまいます。
官軍に明示されるまま、福山藩の軍勢は、旧幕府軍と戦うことになるのです。元々は親藩大名として、西日本の外様大名を抑えこむための存在であった福山藩は官軍となってしまい、函館戦争まで戦います。函館戦争では、榎本武揚率いる軍勢に撃退され、一時、青森まで撤退しています。
幕末ライター夜食の独り言
幕政の中心を担おうとする藩主、家というのは、どうしても地元の藩政をないがしろにしがちです。開国よりおよそ100年前に、江戸幕府の中枢で活躍した田沼意次も遺言で、藩政をないがしろにしたことを悔いた文章を残しています。
阿部正弘の前に幕政の中心にあり、天保の改革を行った水野忠邦などは、実高が25万石前後と言う豊かな唐津藩から実封15万石程度の浜松藩の転封を願いでてまで、幕政の中心で出世しようとします。幕政の中心を担うべき、譜代大名にとっては、藩政は二の次であったことが結構あったようです。阿部正弘も黒船来航の外交問題、内に攘夷の盛り上がりなどの内外に大きな問題を抱え込んでいました。とにかく日本をなんとかしなければならない状況では、能力のリソースを藩政に割く余裕はあまりなかったのでしょう。
関連記事:阿部正弘は大奥でモテモテ、それって史実どおりなの?
関連記事:阿部正弘はペリーを撃退していた?日米和親条約の奇跡