幕末で活躍し、明治政府の中枢で近代日本の建設を担った人材、
その中には多くの吉田松陰の弟子がいます。
吉田松陰は、幼くして、藩主に軍学の講義を行うほどの強烈な英才教育を受けました。
そして、常人から見れば「狂気」としか思えないほど、
また自信でも「狂っている」と言うほどの行動を行い、
叔父の松下村塾を継ぎ、多くの人材を育てていきます。
吉田松陰の松下村塾はなぜ、幕末期に有用な人材を多く輩出したのでしょうか。
今回は吉田松陰の教育方針、弟子たちの存在、松下村塾とはどのようなところであったのか?
それを考察してみました。
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この記事の目次
吉田松陰は松下村塾で何人の弟子を育てた?
吉田松陰は、幽閉が解け蟄居の身となると叔父・玉木文之進の松下村塾を引継ぎ、
身分にこだわらず多くの人たちを受け入れました。
吉田松陰が松下村塾で指導したのはたった2年間です。
その間、吉田松陰の教えを受けた弟子は90人前後といわれます。
塾生名簿なる史料は今は見つかってませんが、門下生には
幕末、明治維新で活躍した人材がゴロゴロしています。
久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文などそうそうたる有名人を含め、
明治期入っても活躍した人材も数多く在籍していました。
松下村塾の代表的14人の弟子
吉田松陰の松下村塾出身の代表的な14人の弟子について紹介します。
非常に大物ぞろいなのに驚きます。
吉田松陰の開いた松下村塾出身者、彼の有名な弟子としては、
長州藩における尊王攘夷思想の中心であった久坂玄瑞、
奇兵隊を創設し軍事的に江戸幕府に致命傷を与えた高杉晋作、
このふたりに並び、松下村塾三秀と呼ばれ、奇兵隊に参加した吉田稔麿がいます。
また、維新三傑のひとり大物・木戸孝允(桂小五郎)も吉田松陰の弟子でした。
明治以降も活躍する人材も多く輩出しています。
日本発の総理大臣となった伊藤博文、同じく総理も経験し
日本陸軍育ての親と呼ばれる山縣有朋 、
内務大臣を務め、獨協大学創始者である品川弥二郎 、
戊辰戦争などで活躍し明治維新後は司法大臣となり、
国学院大学創設者の山田顕義 正木退蔵 も松下村塾出身です。
多くの塾生が反対した吉田松陰の老中暗殺計画に賛成、
参加した入江九一は最後まで吉田松陰についていきました。
同じく、老中暗殺計画に加わってた野村靖は、
明治維新後には 逓信大臣になり吉田松陰の遺言ともいえる
「留魂録 」を牢名主から受け取った人物です。
また、松下村塾三秀であった吉田稔麿とならび
「双璧」と呼ばれた松浦松洞 は吉田松陰の肖像画を書き残し、
増野徳民は、軍医として活躍しました。
そして、戊辰戦争で活躍し、萩の乱で倒れる前原一誠や、
明治維新後ハワイ総領事を務め、吉田松陰の伝記を書き上げた
正木退蔵 などがいます。
吉田松陰の教育方針とは?
吉田松陰にとってそもそも「学問」とはなんであったのか。
彼は弟子たちに「学者になるな」と言っていました。
人間は実行がなければ意味がないと言う考えです。
頭の中にある考えは行動し、形となって初めて社会に影響を与えます。
とにかく、実行第一、正しいと思えば行動することなどは、
陽明学の影響を受けたものであると考えられます。
行動重視が、吉田松陰の教育方針でした。
【ボロクソ貶し最後に褒める】吉田松陰のやる気テクニック
吉田松陰は基本的には人物のいい部分を認め、
褒めて伸ばすということを方針としていたようです。
しかし、全員が全員を褒めておだてて教えるわけもいきません。
吉田松陰は厳しく弟子を批判し、欠点も指摘してます。
しかし、その上で将来性があるというような褒める言葉で
弟子への指導の言葉を締めたのです。
これによって、弟子たちは自分たちの欠点を自覚するとともに、
やる気を出し、その資質を大きく伸ばしていったのでしょう。
塾生一人一人の人物評を残した松陰先生
吉田松陰は弟子の欠点を指摘しますので、十分に弟子のことをよく知っていました。
吉田松陰は弟子のひとりひとりに対する人物評を残しています。
首相にまでなった伊藤博文に対しては調整能力が高く
政治家に向いていると書き残しています。まさに的中です。
もうひとりの総理経験者である山縣有朋 は松下村塾四天王のひとり、
吉田稔麿に「棒っきれ」と評されましたが、
吉田松陰は気力のある人物であるという評価をしています。
「棒っきれ」というのも使い方によっては
非常に有効だと言う意味だったと伝わっていますが。
顔を出さない塾生には脅迫めいた手紙も・・
吉田松陰は弟子に対する面倒見もよく、藩の重役への推薦状や、
旅立っていく弟子の送別会などで送別の言葉を直筆で送るなどしていました。
一方で、疎遠になって、塾に来なくなった人物には頑なな面を見せたとも伝わっています。
一時期、松下村塾を離れた品川弥二郎に対し
「お前など友人ではない、去るものは追わない、自分の気持ちは決まった」
と言う意味の手紙を送りつけています。
吉田松陰は、あれだけの行動をする性格ですから、この程度の手紙を書くこと、
礼を失した人間に対しきつい言葉を書くことは普通にありえたでしょう。
松下村塾々生の団結力が凄い
松下村塾は全く身分を問いません。
吉田松陰は「去る者」を追わないのですが「来る者」も拒みません。
江戸時代のように身分制の社会の中で、非差別的階層にあるものでも
吉田松陰は受け入れたのです。
そのため、長州藩の身分の高い藩士であった高杉晋作は
松下村塾に通うことを、家のものから禁じられました。
それでも、高杉試作は深夜になると松下村塾に向かい、講義に参加しました。
松下村塾では、一方的に吉田松陰が教えるのではなく
皆で議論をするという形の講義の方法をとっていました。
このため、塾生同士のつながりも強く、
彼らの中には長く行動も共にした者が多くいます。
幕末ライター夜食の独り言
吉田松陰の松下村塾はで彼が弟子に指導していたのは
たった2年しかなかったというのは改めて驚きます。
それでいて、これだけ多くの人材に影響与えたと言う事実は、
吉田松陰の語っていた内容がまさに時代の中で生きた学問であった
証拠ではないかといえるのはないでしょうか。
後年、吉田松陰の行動や教育内容には、色々な方向から批判が加わることがあります。
しかし、全ての人間は、時代と言う壁の中で先を見ることなどできはしないのです。
後出しじゃんけんで批判するのは簡単ですが、彼の残した実績は確実に存在し、
彼を高く評価した人物が近代日本を作り上げていく
有用な人材の一部となったのは事実なのです。
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