【徹底解析】天下統一するはずだったのは蜀だった?

2018年5月16日


 

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司馬炎

 

三国時代を天下統一したのは(しん)という国です。

しかし、蜀が天下統一していた可能性が大いにあったのです。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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隠れた人材「蜀の四龍将」の正体

蜀の四龍将

 

みなさん!「蜀の四龍将」という名前を聞いたことはありますか?

おそらく聞いたことのない方がほとんどじゃないでしょうか?

四龍将の命名した人は、はじめての三国志ライターkawauso氏です。

 

三国志演義の作者が後世になって、五虎大将軍という呼び名をつくったのですから、

kawauso氏がつけてもいいですよね。

ポスト五虎大将軍ということで、四神から龍をお借りして名づけてみました。

「蜀の四龍将」について一人ずつ軽く解説していきたいと思います。

 



四龍将・王平(おうへい)(

王平

 

王平(おうへい)

元々は魏の将軍という他の三人とは変わった経歴の持ち主です。

戦で多忙であったため、勉学に疎くはありましたが、

「戦う」という点における能力は、ずば抜けていました

 

街亭で逃げ出した馬謖(ばしょく)に代わって孔明(こうめい)の撤退の時間を稼いだことや、

魏の曹操(そうそう)の10万人の軍に対して3万人の守備兵で撤退させたことで大評価を受けました。

天賦の勝負勘の強さが評価されたのですね。

 

帝政ローマvs三国志

 

四龍将・張翼((ちょうよく)

張翼

 

張翼(ちょうよく)

定軍山の戦いで、趙雲(ちょううん)に従った際に大きな手柄を立て、

南夷を支配するにあたって大きな功績をあげました。

 

しかし残念ながら、法令の厳しさから、

南夷の人々の不振を買い、座を追われる結果になってしまいました。

それに加え、張翼の後任の馬忠(ばちゅう)の就位の際に、彼らに反乱をおこされてしまいました。

 

しかしやっぱり、張翼はどこまでもできる男!

彼は反乱に備えて、事前に必要な食糧・武器を準備していました

馬忠はそれを頼りにし、見事反乱軍に勝利しました。

この準備を背景に異民族に対して厳しい法令を出すことができていたのですね。

 

北伐の際にも彼に関する話があります。

張翼は姜維の北伐に対しては批判的な意見をもっていました。

姜維(きょうい)は批判的な意見をもつ張翼に対してよい印象を持っていませんでした。

 

では、姜維は張翼を北伐に連れて行かなかったのでしょうか?

答えは”NO”です。

自分に批判的な意見を持っていても、必要性ゆえに黙って使わざるをえない

これが彼のすごさを物語っているのではないでしょうか。

 

四龍将・張 嶷(ちょうぎょく)

 

(張 嶷張 嶷張 嶷(ちょうぎょく)


)

家柄は貧しかったものの、とにかく敵に立ち向かう勇気はピカイチ!!

それを劉備(りゅうび)は見逃しません。

 

劉備が入蜀した後に、南充県を山賊が襲う事件がおきます。

南充の長官は、妻子を置き去りにして逃亡してしまいます。

一方、勇気のある男、張 嶷は取り残された長官の妻子を救出したのです。

 

この話を聞いて劉備は彼を重用したそうです。

また、異民族支配の際も彼の優秀さが光ります。

上官と協力して、西南夷討伐、北伐や羌族の討伐において戦果をあげます。

 

ここまでは、普通の有力武将。

それに加えて、彼は素晴らしい内面の持ち主でもありました。

彼は、服していた異民族に対しての厚情を忘れませんでした。

そのため、異民族は彼が帰還することを知ると、彼らは車の車輪にすがって涙を流したそうです。

 

四龍将・寥化(りょうか)

寥化

 

・寥化(りょうか)

判断力に優れた人物として関羽(かんう)の主簿という官職を担っていました

彼は繁忙な人生を送ることになります。

 

関羽が呉の呂蒙(りょもう)に敗れて降伏します。

「どうしても蜀に戻りたい」と思った彼は、

自分は死んだというデマを流して年老いた母とともに蜀へと逃亡し、

逃亡した寥化はそのまま東夷の戦いに参加しました。

 

残念ながら、姜維が北伐を再開した際に必死にサポートを行いますが、

魏の郭淮(かくわい)鄧艾(とうがい)を相手に苦戦を強いられました。

それもあってか、晩年は北伐に対して批判的でした。

 

4人に関する説明は以上です。

蜀には実はこんな隠れた優れた逸材がいたのですね。

 

「四龍将」ではとどまらない!?

 

当時大活躍を見せた四龍将ですが、なんと七龍将だった可能性があったのです!

では、なぜ四龍将になってしまったのか。

 

それは、東陵の敗戦での劉備の大失敗が原因でした。

この敗戦で蜀軍は大ダメージを受けました。

文官では、馬良(ばりょう)が戦死しました。彼は間違いなく孔明を支える存在となったことでしょう。

 

被害はそれだけではありません。

府驟、張南(ちょうなん)傅彤(ふとう)という優秀な三人の武将も戦死しました。

この三人の武将は生き残っていれば、この三人に四龍将を加えて、七龍将として当時の蜀を

さらに支えていたことでしょう。

 

「たられば」かもしれないが・・・

劉備

 

「歴史にたらればはない」とよく言われますが、もし、劉備が大失敗をしなければ、

孔明は馬謖・魏延(ぎえん)楊儀(ようぎ)のような足をひっぱる人材に手をかけずに済みました

 

戦いにも、直接には参加せずにより客観的な位置から戦況を見守ることができたかもしれません。

そうすれば、孔明はよりその優れた頭脳を最大限に発揮できたことでしょう。

 

その孔明の頭脳と魏延、姜維、七龍将という最強の武力との融合によって

蜀の天下統一は現実になっていたかもしれません。

となると、やはり劉備はやらかしてしまいましたねぇ。

 

※この記事は、はじめての三国志に投稿された記事を再構成したものです。

元記事:【ポスト五虎大将軍】蜀の四龍将が生きていれば蜀は魏を倒せた?

 

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