幕末の長州藩と言えば、長州藩と欧米との軍事力の差があるにもかかわらず攘夷を決行したり、天皇のいる御所を攻撃したりと、読者のほとんどが攘夷派で強硬派が多いという印象を受けます。攘夷派で強硬派が多い長州藩ですが、優秀な藩士がいたことも事実です。優秀な藩士の中から久坂玄瑞について取り上げます。久坂玄瑞と言えば、2015年の大河ドラマ『花燃ゆ』で、主演の杉文が結婚していた人で印象に残っているかもしれません。
『花燃ゆ』が放送されるまで、25歳で禁門の変で自害していることから禁門の変で自害した人として紹介されるだけで、あまり注目されませんでした。この記事では、禁門の変について取り上げるとともに25歳で生涯を閉じた久坂玄瑞の人生の幕の閉じ方について考えます。
この記事の目次
久坂最後の戦い、禁門の変って?
禁門の変の前年1863年に八月十八日の政変が起こりました。この政変で三条実美や長州藩ら攘夷派が京都を追われました。長州藩主毛利敬親は官位を剥奪されるなど京都での主導権を失いました。長州藩は三条実美を伴って京都での主導権を取り戻すために京都に兵を率いて上りました。
京都の池田屋に尊王攘夷派が集まって、京都に火を放って孝明天皇を長州に連れ出すという計画を立てていましたが、新選組に襲われて攘夷派が命を落としました。長州藩は窮地に追い込まれ、京都御所を攻撃しました。この御所を攻撃した事件を禁門(蛤御門)の変と言います。
禁門の変の結果、長州藩は幕府・会津藩・薩摩藩の連合軍に敗れました。長州藩は御所を攻撃したことで朝敵と見なされ、幕府による第一次長州征討で降伏しました。長州藩士の久坂玄瑞と寺島忠三郎は鷹司邸に侵入しましたが、会津藩の兵に包囲され、自害しました。
久坂玄瑞は禁門の変では慎重派だった?
長州藩は京都付近まで兵を進め、久坂玄瑞と真木和泉は山崎の天王山に、来島又兵衛は嵯峨付近にそれぞれ布陣します。軍議は石清水八幡宮でありましたが、来島ら強硬派は御所を攻撃せよと言いましたが、久坂ら慎重派は長州から援軍が来ていないので御所への攻撃は得策でないと言いました。意見は二つに割れ、来島が「卑怯者」と言って軍議から立ち去りました。この後、真木和泉が来島の意見に同意したことにより天皇の御所を攻撃することが決まりました。この時、久坂玄瑞は敗北に向かうと悟ったという記録が残っています。
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「僕はこれまでだ、諸君は大いに勉めてくれよ」
禁門の変で久坂玄瑞は寺島忠三郎とともに鷹司邸に侵入しましたが、会津藩に包囲され、自害しました。自害したときに、後進のことを想い、「僕はこれまでだ、諸君は大いに勉めてくれよ」という言葉を残しました。久坂玄瑞の最期の言葉として知られています。久坂が25歳の時に残した言葉で、当時長州藩には優秀な人材がたくさんいたと推測することができます。
「ほととぎす血になく聲は有明の月より他に知る人もなき」
このタイトルの句は久坂玄瑞の辞世の句と言われていますが、実際に久坂が詠んだのは22歳の時で、禁門の変で自害する3年前でした。幕末の動乱で、いつ死ぬか分からない状況で、死を覚悟していたと考えられます。この句の終わりにある「他に知る人なき」に注目します。もっと久坂のことを知ってほしいという気持ちが込められていると考えられます。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回取り上げた久坂玄瑞を通して、長州藩は必ずしも強硬派だけではないことが分かりました。久坂玄瑞のように京都の御所への攻撃について慎重派がいたことを忘れないようにしたいと思います。幕末の長州藩には久坂玄瑞のよな優秀な人材が多くいます。優秀な人材を多く輩出する長州藩の仕組みにも注目したいと思います。
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