高杉晋作は感染症結核で亡くなりました。結核はつい最近まで日本人にとって死因の最大の原因のひとつになっていました。有効な薬ができたのは、太平洋戦争の末期で、日本では物資もなく非常に貴重な薬でした。
幕末の有名人で結核といえば、新撰組の沖田総司も思いつくのではないでしょうか。幕末の時代は「労咳」とよばれ、死の病です。
風通しのいい場所で安静にして栄養をつけるという意外に治療法がありませんでした。実際、それで治ってしまう人もいましたが、多くの人が「労咳」と呼ばれた結核で命を失っています。高杉晋作もそのひとりです。今回は高杉晋作の死因となった結核と、彼の死因の詳細について調べ、結核について考えてもみました。
この記事の目次
高杉晋作の死因は結核!結核とは?
高杉晋作の命を奪った結核とはどんな病気でしょうか?
結核とは結核菌に感染して体内で増殖することによって、発症する病気です。結核菌は全身のどこでも繁殖しますが、日本人の場合は80%が肺結核という症状となります。初期症状は風邪に似ていますので、気がつかない人も多いということで厄介な病気です。長い間せきが止まらず、そのうち血の混ざった痰を吐くようになります。病状が悪化すると血を吐き、そのために呼吸困難となり、それにより死んでしまうこともあります。
高杉晋作が結核になった原因は幼少期の天然痘?
高杉晋作は10歳のときに天然痘にかかります。当時は疱瘡とよばれ、多くの死者を出した病気です。江戸時代は今からは想像できないほど、医学は未発達であり、麻疹で死ぬ子供も多かったくらいです。むしろ命を失うことでは麻疹の方が「命さだめ」と呼ばれました。天然痘は「見さだめ」といわれました。
生き残ってもアバタ顔になることからそう呼ばれましたし、高杉晋作も「アズキ餅」というあだ名がつくようにアバタ顔になってしいました。また、このとき高杉晋作は一緒に結核菌に感染した可能性もあります。
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高杉晋作は遊郭通いで結核を感染された?
高杉晋作がいつ結核菌に感染したのかについては、遊郭通いの時期ではなかったかというのが有力な説として存在します。当時の江戸は遊郭が非常に多い都市でした。幕府公認の吉原から、準公認的な位置にあった品川などにあった宿場の遊郭などの他、私娼館も多く、個人営業の夜鷹や船まんじゅうとよばれた娼婦も多くいました。
高杉晋作は公娼街である、吉原で遊ぶことが多く、そこで結核になったのではないかという説もあります。当時は、衛生感覚も現代と異なり、高級娼婦であっても、梅毒罹患率が非常に高かったという史料が残っています。梅毒だけでなく、不衛生な環境の中で結核患者も多く、高杉晋作はそこで結核菌に感染してしまったのかもしれません。とにかく、当時の売春宿はかなり、危険な場所でした。
体が小さく気管支が弱かった高杉晋作は病気に罹りやすかった
高杉晋作は元々幼少期から病気がちであり、気管支が弱いところがありあました。そのため、逆に武道に打ち込み体を鍛えていきました。ただ、武道に優れている、体を鍛えることと、病気に罹りやすいかどうかはあまり関係ないです。むしろ筋肉をつけすぎると免疫力が下がり、病気にかかりやすい体質になります。これは体内のグルタミン酸が消費され、免疫系までエネルギーが回らなくなるからです。また、鍛えたあとかいた汗を拭かないままにしていれば、当然風邪を引く可能性が上がってきます。
高杉晋作は小柄で、写真に写るときも必ず座って撮影したという逸話があります。体の小さな人、病弱気味だった人が、そのコンプレックスゆえに武道に励むというのはよくあることではありますね。
幕末に結核で死んだ幕末明治の有名人幕末期に結核で死んだ有名人としては高杉晋作、新撰組の沖田総司が有名ですね。その他にも、明治以降も坂本龍馬の部下であり、その後明治政府内で外交政策で手腕を発揮した陸奥宗光、野球という言葉を生み出した歌人の正岡子規も結核で死んでいます。文化人では、近代の女性歌人として有名な樋口一葉、作曲家の滝廉太郎、作家の国木田独歩も結核で命を落としています。
【注意】結核は過去の病気ではない
結核は昔の病気ではありません。高杉晋作が幼少期にかかった天然痘は撲滅されましたが、結核は今でも死亡者、患者数多い病気です。日本では他の先進国に比べ結核患者が多くなっています。結核は、治療に効果的な薬が生まれたため「過去の病気」というイメージが強いですが、決して撲滅され過去になってしまった病気ではありません。最近でも、船橋市の塾で大量の結核感染者が出たことがニュースになっています。
日本はいまだに、結核の「中まんえん国」というレベルにあります。10万人に18.2人の患者がいます。結核は感染すると患者が拡大していきます。結核のまんえんを防ぐには、早期発見と早期治療が必要です。せきが長引くような場合、ただの風邪だと思わず、病院できちんと調べてもらいましょう。
幕末ライター夜食の独り言
結核は最近まで日本人の国民病であり、特効薬が開発されるまでは、死因の第一位でした。これは昭和三〇年近くまで続いています。幕末、明治時代においては本当に治療法も無く、また衛生環境も現代とは異なる幕末、明治時代、人は簡単に死んでしまいます。高杉晋作の短い29年の人生ですが、その人生は幕末時代はもっと短い可能性があったのです。