桂小五郎と高杉晋作最強コンビの本当の関係は??

2018年3月27日


 

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維新三傑の一人・木戸孝允(きどたかよし)

木戸孝允の名前は維新後に改名して名乗った名前です。

幕末は長州藩で活動し桂小五郎(かつらこごろう)と名乗っていました。

剣術の達人で新撰組隊長・近藤勇(こんどういさみ)ですら勝てなかったようです。

またかなりのイケメンで、当時の木戸孝允の写真を見るとかなりカッコいいです。

そして長州藩の天才戦術家で奇兵隊を作った高杉晋作(たかすぎしんさく)

晋作は吉田松陰(よしだしょういん)の元で学び、一緒に学んでいた生徒から天才と言われるほど優秀でした。

二人は互いの長所を生かしかなりいいコンビだったようです。

今回はこの二人のコンビについてご紹介しましょう。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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「狂」の高杉、「理」の桂対照的だった二人の生い立ち

 

高杉晋作は戦術家としては天才的な才能を発揮します。

また桂は政治家としてその名を知られます。

対照的な二人ですが、彼らの生い立ちも対照的でした。

 

高杉晋作の実家は毛利元就(もうりもとなり)の時代から続く毛利家の家臣の家です。

長州藩の時代には上士と呼ばれる侍の家に晋作は長男として誕生。

晋作の幼いころは皆からもてはやされた為、わがままな少年でした。

でも病弱でガリガリ君でかなりコンプレックスを抱えていました。

 

そこで晋作は病弱なガリガリ君のコンプレックスを無くすため、

剣術を習って体を鍛えていたそうです。

こうしてガリガリ君から脱出した晋作は吉田松陰と出会った事で、

学問に打ち込んでいくことになります。

 

桂小五郎は桂家に養子として迎えられた人です。

実家は毛利家の家臣の和田家の生まれです。

しかし小五郎は幼いころ病弱だったため、桂家へ養子として出されてしまいます。

小五郎は桂家に移っても病弱でしたが、悪さばかりするとんでもない子供でした。

 

彼がどのような悪さをしていたのか逸話が残っています。

小五郎は川を運行している船に船頭が乗っているにも関わらず、

船を沈没させてその沈没する様子をみてケラケラ笑いながら楽しんでいたそうです。

とんでもない悪ガキですよね。

 

そんな桂小五郎も高杉晋作と同じく、吉田松陰に出会い

学問に深く打ち込んでいくようになります。

桂も幼少期にコンプレックスを持っていましたが、

改善しようとしないで、他人を困らせていた悪ガキでした。

このように生まれも対照的、幼少期の過ごし方も

対照的な二人だったのがお分かりいただけたと思います。

 

吉田松陰を介して出会ったふたり

 

 

高杉晋作と桂小五郎は幕末長州藩で活躍した二人ですが、

一体どこで出会ったのでしょうか。

二人がお互いの事を知ったのは幕末の超有名人・吉田松陰のおかげです。

吉田松陰は松下村塾(しょうかそんじゅく)を開いた事で有名な人です。

この松陰は松下村塾を開き、多くの優れた人材を育てます。

 

彼の門下生で有名な伊藤博文(いとうひろぶみ)久坂玄瑞(くさかげんずい)

日本のナポレオン・山田顕義(やまだあきよし)などが有名で、

高杉晋作もこの松下村塾の生徒として学んでいました。

しかし桂小五郎はこの松下村塾で学んでいませんでした。

 

桂小五郎は松下村塾が出来る前に山鹿流兵法術(やまがりゅうへいほうじゅつ)を学び、

この山鹿流兵法術を吉田松陰から教えてもらっていました。

松陰は小五郎をベタ褒めしており、松下村塾を開いた時も生徒達へ

「桂君はすごく優秀な人ですから、何かあったら桂さんに聞きなさいと」と教えたとか。

 

高杉晋作は松陰先生から桂の評判を聞いており、

先生が信頼を寄せている桂へ色々なアドバイスを伺っていたとされています。

そして桂も晋作に信頼を寄せることになり、

二人は固い信頼関係で結ばれることになるのです。

 

ガンバレ徳川

 

暴走する高杉を庇い続けた桂

 

高杉晋作は暴走列車のように色々な事をしでかします。

例えば外国の公使を仲間と一緒に襲って殺害しようと計画したり、

長州藩が大変な時に脱藩したり、酒を飲んで遊びまくったりと

わがままでやりたい放題していました。

 

しかし桂小五郎は高杉晋作がやらかした時は晋作の代わりに謝ったり、

やりたい放題やった時は長州藩のお偉方に根回しをして、

高杉晋作を庇って苦労していたそうです。

晋作がわがまま放題やりたい放題できたのは

桂が苦労して高杉をかばい続けたからこそできたのでしょう。

 

禁門の変・下関戦争など桂の窮地を救った晋作の「狂気」とは

 

桂小五郎は逃げの小五郎と言われる程逃亡がうまい人物でした。

そんな桂小五郎ですが、高杉晋作に救われたことがあるのをご存知ですか。

ここでは窮地に陥った桂小五郎を高杉晋作が救ったお話をご紹介しましょう。

 

桂は禁門の変が失敗して幕府から凶悪犯として指名手配され、逃亡生活をすることに。

桂は指名手配されると京都で潜伏していましたが、

幕府の搜索の手が厳しくなると京都にいられなくなり、再び逃亡し但馬(たじま)へ向かいます。

桂は但馬へ逃亡した後、ほとぼりが冷めるまで但馬の地で潜伏することになるのです。

 

※但馬:現在の兵庫県北部

   

桂が逃亡している時、長州藩は大混乱

 

桂が指名手配犯になっている頃長州藩は大混乱していました。

長州藩は攘夷を実行しますが、外国の連合艦隊に敗北。

外国艦隊に敗北した長州藩は外国と和議を結ぶため、高杉晋作を起用します。

晋作は外国の連合艦隊の代表者と和議の交渉に入り、

なんとか連合艦隊と和議を結ぶことに成功。

 

その後幕府から目を付けられた長州藩は第一次長州征伐が始まる前に

俗論派が長州藩で政権を握ります。

晋作はこの時、すぐに長州藩から出奔し、俗論派を打倒するため、挙兵します。

晋作は俗論派を討伐する挙兵の時自らが作った奇兵隊を説得して、兵力を得ることに成功。

その後晋作の疾風迅雷(しっぷうじんらい)の作戦によって俗論派を藩内から追い出します。

 

晋作は俗論派を長州藩から追い出すことに成功しますが、

自らが政治に関わる事を嫌い、藩の政治に関わりませんでした。

そのため長州藩は混乱状態から抜け出すことができず、

藩の方針を決めることができませんでした。

 

高杉晋作は長州藩の混乱を収めることが出来るのは、

兄貴分で吉田松陰が信頼していた桂小五郎しかいないと考えます。

 

晋作に救われ、長州藩のリーダになった桂小五郎

 

晋作は長州藩の混乱を鎮めるため、桂小五郎を必死に探し、ついに桂の居場所を発見。

すぐに晋作は桂へ手紙をだして自ら迎えに行くと示します。

(しかし晋作が迎えに行くことはなく、桂の奥さん・幾松が迎えに行くことになる。)

 

桂は晋作からの申し出を受けて長州藩へ戻ると、軍事・政治のアドバイザーになり、

実質的な長州藩のリーダーとして就任することに。

もし高杉晋作が長州藩で俗論派に敗北していた場合、

桂は長州藩に戻ることができずにそのまま但馬で引きこもり生活を続けていた事でしょう。

このように考えると晋作が桂を逃亡生活から救い出したと言えるのではないのでしょうか。

 

絶頂期に死んだ高杉晋作・悩み苦しんで死んだ桂小五郎。

 

高杉晋作は27歳という若さで亡くなりますが、彼の人生の中で、絶好調の時でした。

高杉晋作が亡くなる一年前の26歳の時は、長州藩が滅亡する寸前にまで追い込まれていた時期でした。

この年、幕府の大軍が四方面から長州藩へ攻め入ってきます。

長州藩は高杉晋作と大村益次郎(おおむらますじろう)の二人を起用して、幕府軍迎撃作戦を展開します。

大村益次郎は石州口から攻撃してきた幕府軍数万を数千の兵士で撃退することに成功します。

 

また芸州口からやってきた幕府軍も長州藩の精鋭部隊が迎撃し、撃退します。

こうして陸上での戦いは長州藩の勝利で幕を閉じます。

しかし幕府軍は海からも長州藩へ攻撃を仕掛ける手はずを整えていました。

 

海の幕府軍を撃退したのは長州藩の暴れ者・高杉晋作、この時26歳でした。

彼は第二次長州征伐が開始される前に大島で休憩していた

幕府艦隊へ夜襲攻撃を仕掛けて、撃破することに成功します。

幕府軍は大島での夜襲攻撃によって艦隊を避難させ、第二次長州征伐に参加しませんでした。

 

そして晋作は第二次長州征伐が始まると

下関の海峡から長州へ攻め込もうとしている幕府軍を撃退するため、

下関から海を渡って、幕府軍を急襲する作戦を展開します。

この時晋作は二万以上の幕府軍に対して数千の長州藩の兵士を率いて出陣。

晋作率いる長州藩の軍勢は幕府軍と数回戦い、勝利を幾度も収めます。

 

その後坂本龍馬(さかもとりょうま)率いる海援隊(かいえんたい)の部隊が駆けつけた事で、

下関海峡にいた幕府軍は不利になり撤退。

小倉城で幕府軍の指揮をしていた小笠原さんは

将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)が亡くなった事を知ると小倉城を捨てて逃亡。

 

晋作率いる軍勢は城主のいない小倉城を陥落させて

小倉口から攻めてきた幕府軍を撤退させることに成功します。

長州藩は大村益次郎や奇兵隊の活躍により、

陸からの幕府軍の攻撃を撃退することに成功します。

 

そして高杉晋作の獅子奮迅の活躍で海からの幕府軍を撃退しますが、

この活躍の翌年に亡くなってしまいます。

高杉晋作の死因は結核と言われ、当時は不治の病と言われていた病気でした。

しかし高杉晋作は彼らしい最後を迎えたと言えます。

 

桂小五郎は悩みすぎて・・・・

 

桂小五郎は高杉晋作が亡くなった後も戦いを続けていきます。

そして小五郎は明治政府が樹立されると明治政府樹立の勲功(くんこう)が讃えられ、

大久保利通(おおくぼとしみち)西郷隆盛(さいごうたかもり)らと一緒に明治政府のトップクラスの地位をもらいます。

また桂は明治政府樹立後木戸孝允(きどたかよし)と名前を変えています。

 

さて桂小五郎改め木戸孝允は明治時代になると多くの悩みを抱えることになります。

木戸孝允は明治政府樹立後は明治政府のトップクラスの地位を与えられ、

大久保達と明治政府の舵取りを行っていました。

木戸孝允はこの時も悩みが多かったでしょうが、それほど辛くなかったようです。

 

そして木戸孝允や大久保利通は近代の政治を学ぶため、欧州の国々を歴訪します。

木戸孝允や大久保ら欧州で近代国家に触れ、色々と勉強しながら日本へ帰国します。

しかし欧州から帰国後、木戸孝允は苦痛な悩みを抱えることになるのです。

 

木戸孝允の悩みとは

 

木戸孝允は欧州から帰国後辛い悩みを抱えることになります。

木戸孝允の悩みとは一体何でしょう。

まず一つ目は重要な政府の地位から外れて行くことです。

 

なぜ維新三傑の一人・木戸孝允は政府の重要な地位から外れたのか。

それは薩摩の大久保が欧州から帰国後、政府の実権を握ったためです。

木戸は政府の重要な地位から外された事を悩みはじめますが、彼の悩みはまだあります。

二つ目の悩みは欧州から帰国後に起きた西南戦争(せいなんせんそう)です。

 

西南戦争は薩摩士族が西郷隆盛を旗頭として明治政府に反乱を起こした戦いです。

木戸は西郷が反乱を起こした時、病で寝ていましたが、

この報告を聞いて再び悩み始め鬱々(うつうつ)とした日々を過ごすことになります。

そして西南戦争が終結する前に木戸孝允は亡くなってしまいます。

 

彼は見舞いに駆けつけた大久保の手を握って一言

「西郷、もういいかげんにしろよ」と呟いて亡くなったそうです。

木戸孝允の死因は心労が原因で酒が強くないのに飲みまくった結果、

肝臓肥大などが原因で亡くなったそうです。

 

幕末ライター黒田レンの独り言

 

桂小五郎と高杉晋作をご紹介しました。

桂小五郎はどちらかと言えばリーダーとしてどっしりと構えて

状況が変化するまで待つ忍耐力のあった人だったように思えます。

 

反対に高杉晋作は状況を変えるために

色々と行動を起こす人物のようであったと思われます。

しかしこの二人がいなければ明治政府が樹立する可能性が引くことを考えると、

二人の対照的な人物のおかげで、維新回天はうまくいったように思われます。

皆様はどのように思われますか。

 

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