この記事では、薩摩藩士の五代友厚と幕臣勝海舟についてそれぞれ別の立場で名を残した2人の偉人について取り上げます。
薩摩藩士の子・五代友厚と幕臣の子・勝海舟
五代友厚は父五代直左衛門秀尭の次男として鹿児島城下に生まれました。14歳のとき、藩主・島津斉興がポルトガル人から入手した世界地図を見ました。友厚は父からこの世界地図の複写を命じられ、模写した地図を自分の部屋に貼りました。この出来事が世界に興味を持つきっかけとなります。
その後、長崎海軍伝習所へ藩伝習生として派遣され、オランダ士官から航海術を学びました。薩英戦争ではイギリス海軍の捕虜となりますが、横浜でイギリス艦から脱出します。地元薩摩ではイギリスの捕虜となったことが悪評となったため薩摩に帰国できず、しばらく潜伏生活を送りましたが、薩摩への帰国を許されました。
一方で、勝海舟は幕臣の家庭に生まれました。蘭学を学んでから私塾を開きます。安政の改革で老中阿部正弘に出した建白書が評価され、注目されるようになりました。その後、長崎海軍伝習所に入所し、1860年には咸臨丸で渡米しました。帰国後、軍艦奉行となり神戸海軍操練所を開設しました。
戊辰戦争時には幕府軍の軍事総裁となり、徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、江戸城無血開城を主張しました。明治維新後、勝海舟は参議・海軍卿・枢密顧問官を歴任しました。後に伯爵に叙せられるなど明治政府にも関わりました。また、政治結社明六社を支援する活動もしています。
海軍伝習所での出会い
五代友厚と勝海舟は接点があったのか。接点があった場所は長崎海軍伝習所です。長崎海軍伝習所は長崎奉行所につくられました。主に学んでいた人は幕臣・長崎の役人・佐賀・福岡・鹿児島などの雄藩の藩士から選抜された人でした。
授業内容は航海に関するものだけではなく、医学や気象学など幅広い学問もあります。この伝習所の修了生には日本海軍創設に重要な役割をした人物だけでなく、近代医学の発展や気象事業の発展にかかわった人材も輩出しています。五代友厚と勝海舟は長崎海軍伝習所の一期生として学びました。勝海舟は2期目も海軍伝習所に残り、幕臣の榎本武揚とともに学びます。勝海舟は卒業後、咸臨丸で太平洋を横断しました。帰国後、海軍の乗員を身分に関係なく養成するべきと主張し、神戸に私塾海軍操練所と神戸海軍塾を作りました。
一期生の五代友厚は海軍伝習所卒業後政界よりも経済界で尽力しました。東京に首都が移ったことや銀取引廃止で衰退していた大阪経済を立て直しました。大阪商法会議所の開設など商工業の組織化を行いました。五代と勝は長崎海軍伝習所の一期生ですが、航海の知識を活かして薩摩藩士と幕臣という違う立場で功績を残すことになります。
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いざイギリスへ。五代は「貿易」で名をはせる
長崎海軍伝習所の一期生となってからグラバーのもとに出入りするようになりました。長崎で外国人だけでなく長州藩の高杉晋作とも知り合いになります。五代は薩英戦争で捕虜になったことで藩から追われる立場になりましたが、長崎に戻り潜伏生活を送りました。同じ薩摩藩士の取り計らいにより、帰国が許されました。
帰国後、イギリス留学に派遣されました。五代は帰国後貿易係となり、薩摩藩の貿易を担当しました。貿易を一手に引き受けることで、経済を学びます。明治新政府になってから、この薩摩藩での経験を大阪経済の再生に活かします。
薩長に立ち向かった勝・その時五代は?
江戸幕府は大政奉還後、新政府軍と旧幕府軍との一連の戦いである戊辰戦争が始まりました。戊辰戦争の最初の戦いである鳥羽・伏見の戦いで、新政府軍が勝利すると、江戸に向かいます。勝海舟は新政府軍の西郷隆盛と交渉し、江戸城無血開城を実現することに成功しました。一方で、五代友厚は戊辰戦争の表舞台にほとんど出ていません。当時、神戸事件・堺事件・パークス襲撃事件など外国人とのトラブルの解決に追われていました。また、薩摩藩の貿易担当という立場で、商人のグラバーからの武器の買い付けを行っていました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
この記事では長崎海軍伝習所の一期生の五代友厚と勝海舟について取り上げました。五代友厚は低迷していた大阪経済の立て直しに努めました。一方で、江戸城無血開城後の勝海舟について、あまり知られていませんが、明治新政府に加わっていたことが分かりました。今後、五代と勝以外の長崎海軍伝習所の学生の修了後の活躍に注目したいと思います。
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