佐久間象山、幕末の天才奇人はどうして暗殺された?


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佐久間象山

 

佐久間象山(さくましょうざん)は、その生涯を暗殺という形で終えました。

佐久間象山は天才、奇人と評されています。

しかし、幕末時代に多くの人物に影響を与え、その時代の中でも傑出した知識、

頭脳をもった洋学者であったことは確かです。

その佐久間象山がどうして暗殺されたのか?

今回は佐久間象山暗殺の経緯、理由について調べてみました。

 

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佐久間象山暗殺の実行犯は誰?

河上彦斎

 

佐久間象山を暗殺したのは河上彦斎(かわかみげんさい)を中心とする一団です。

象山暗殺の中心となった河上彦斎は、幕末の幕末の四大人斬り

(他に岡田以蔵(おかだいぞう)中村半次郎(なかむらはんじろう)田中新兵衛(たなかしんべい))のひとりと言われる人物です。

河上彦斎は、肥後熊本藩士で強固な尊王攘夷論者(そんのうじょういろんしゃ)でした。

幕末の暗殺者の中には、道具として使われるだけの存在もいましたが、

河上彦斎は己の中の信念、理論に基づき行動をしていた部分があります。


佐久間象山の暗殺の状況は?

佐久間象山の暗殺の状況

 

佐久間象山は一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)に招かれて京都に来ました。

後の15代将軍となる慶喜に、象山の持論である「公武合体政策(こうぶがったいせいさく)」と

開国攘夷論(かいこくじょういろん)」を説くためにでした。

 

しかし、当時の京都は過激な尊王攘夷派がひしめく危険な町となっていました。

象山は「西洋かぶれの国賊(こくぞく)」というイメージをもたれており、

京都の町を移動するのは危険だったのです。

 

それでも、自信過剰なところのある佐久間象山は従者2人、馬丁2人をつれて

愛馬で京都市中を移動していたといわれます。

また、単独で移動していたという話もありますが、どちらにせよ佐久間象山は、

ほぼ無防備といっていい状態で危険な京都を移動していたのです。

象山が京都の三条通木屋町を通りかかったときに、通行人の中から暗殺者が現れます。

河上彦斎と前田伊右衛門(まえだいえもん)のふたりです。

 

初撃の一刀で、象山は脚をきられ落馬します。

地に落ちた佐久間象山に河上彦斎たちは何度も刀を突きたて止めを刺しました。

白昼の京都での凶行に現場は大騒ぎとまります。

その騒ぎの中、河上彦斎たちは雑踏に紛れ現場から逃げ切りました。

幕末を代表する天才洋学者・佐久間象山はこうして暗殺されてしまったのです。

 

幕末のおじゃるズ公家
公家

 

河上彦斎はどうして佐久間象山を暗殺した?

佐久間象山

 

河上彦斎はどうして佐久間象山を暗殺したのでしょうか?

幕末から明治初期にかけてはテロ・暗殺が頻繁(ひんぱん)に起こりました。

実行犯の多くは刺客として、背後に政治的、思想的な目論見を持った者の指示で

暗殺を実行するケースが少なくありませんでした。

幕末の幕末の四大人斬りの岡田以蔵などはその典型的な例でしょう。

 

しかし、河上彦斎は肥後熊本藩士として、それなりに教養があり、

自分の信念として「尊王攘夷」を実行すべしという考えを持っていたのです。

攘夷とは外国勢力を排除することです。「開国」と対立する考え方として

位置づけられることが多い概念でしょう。

 

しかし「開国」することが「攘夷」と対立する考え方であったのかどうかまで

深く考えられる人材は限られていました。

「攘夷」と「開国」は決して矛盾する概念ではなく、

開国した上での攘夷と言う考え方も成立するのです。

佐久間象山の考え方はそのようなものでした。

河上彦斎

 

西洋諸国の兵力と日本の兵力の情報を正確に把握することができる立場にいる人物は

限られます。

彼我の戦力差の情報を得ていなければ、実力での攘夷など現状では不可能であると言う

判断ができるはずがありません。

佐久間象山は「攘夷」を否定していませんでした。

現状での攘夷は無理であると言う合理的な判断をしていただけです。

 

彼の考え方は「開国攘夷論(かいこくじょういろん)」というものであり、西洋諸国の進んだ技術を取り入れ

その上で日本は西洋諸国に対抗すべきであるという考えだったのです。

ただ「西洋の技術を取り入れる」と言う部分が、西洋かぶれの国賊というイメージを

攘夷論者の間に作って行ったのでしょう。

 

幕末時代は、現代のようにあらゆる情報を簡単に共有できる時代ではありません。

得られる情報の格差、そこから生じた攘夷の方向性の食い違いにより

象山は暗殺されてしまったということになります。


佐久間象山暗殺とその後の日本

日本

 

佐久間象山は幕末随一の洋学者でした。多くの人材に思想的な影響を与えています。

明治維新の原動力となった人材を多く育てた吉田松陰(よしだしょういん)も象山の門下にいたことがあります。

更に、河井継之助(かわいつぎのすけ)橋本左内(はしもとさない)坂本龍馬(さかもとりょうま)などが門下生にいたのです。

吉田松陰

 

佐久間象山の主張した「開国攘夷論」は結局、

明治新政府の対外方針とさほど違わないものとなりました。

日本は西洋列強に追いつくため、西洋科学技術、法制度など近代化にまい進します。

それは、日本という国を西洋列強から守る安全保障が大きな動機になっていたと言えるでしょう。

象山の思想は多くの弟子に引き継がれ、近代日本の建設に大きな影響を与えました。


  

 

幕末ライター夜食の独り言

幕末ライター夜食の独り言

 

佐久間象山は自信過剰(じしんかじょう)尊大(そんだい)という性格面ではいろいろ問題のある人物であったようです。

そのため、後世の評価はその実績、影響力に比べあまり高いとはいえません。

もし、佐久間象山が暗殺されなかった場合、

明治維新後の日本建設の中で大きな活躍を見せた可能性もあったでしょう。

 

河上彦斎は、象山暗殺後に彼の思想、能力、実績を知り愕然となり、

その後暗殺を行わなくなったと言われます。

西洋諸国に追いつき、日本を強国とすることで、安全保障を確立していこうとする

明治政府の方針はまさに象山の主張していた路線を

踏襲したものといえるのではないでしょうか。

 

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