佐久間象山は天才?実際の所を検証


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佐久間象山

 

佐久間象山(さくましょうざん)は、幕末随一の天才的学者として評価される一方で、

同時代の人物からもあまり高く評価されていないところがあります。

その実績に比べ現在でも知名度はいまひとつの人物ではないでしょうか。

今回は、佐久間象山の実績などを調べ本当に天才だったのかを検証してみました。

 

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幕末の万能天才・佐久間象山

幕末の万能天才・佐久間象山

 

信州松代生まれの佐久間象山は幼少より神童と呼ばれていました。

三歳のときにお寺に張ってあった御札の漢字をすぐに覚え、

「禁」という字を書いたという逸話が残っています。

 

幼少期から儒学、和算などで一流の師匠につき学問を修めていきます。

さらに佐久間象山の父親は卜伝流(ぼくでんりゅう)剣術の達人であり、

佐久間象山は武芸においても優れた技術を身につけ達人のレベルにあったと言われています。

 

江戸に出てからは当時の武士の基本教養である朱子学を学び、

その分野でも飛びぬけた評価を受けます。

更に和歌や漢詩、書画においても高い評価を受けるのです。

江川英龍

 

そして、当時日本最高の西洋砲術を身につけていた江川英龍(えがわひでたつ)より西洋砲術を学ぶことになります。

その時点でオランダ語など知らない佐久間象山はたった2ヶ月でオランダ語を習得したのです。

ただ天才というだけではなく、象山は寝る間も惜しんで勉強するなど努力する人もでありました。

そして、佐久間象山は学問に対し非常に合理的な考えを持っていました。

 

日本的伝統の「免許皆伝」「秘術」「伝授」などといったもったいぶった学習法を嫌い、

江川英龍と袂を分かち、洋書から独学で最新砲術を学んでいくのです。

大砲の製作技術、兵学だけでなく、ガラスの製造、日本初の電信実験の成功、カメラの製造、

また種痘(しゅとう)の研究も行うなど、西洋の科学技術のあらゆる分野でその知識を得ていきます。

万能の天才といえばレオナルド・ダビンチを思いつく人も多いでしょう。

 

彼も科学、芸術、しかもレスリングも最強という万能天才でした。

そして、幕末の日本に生まれた佐久間象山も科学、芸術、武芸に傑出した

日本のレオナルド・ダビンチと評するほどの天才だったのです。


天才・佐久間象山の実績は?

島津斉彬

 

佐久間象山は西洋の進んだ科学技術をよく理解していました。

大砲、電信、カメラ、地震計など多くの西洋の先端技術を研究し

理解し自分でも製作しています。

 

おそらく佐久間象山は幕末期の日本で最も西洋の技術レベルを把握し、

それを再現できる稀有な人物のひとりだったでしょう。

佐久間象山の知識、知見は政治にも影響を与えます。

藩主の幸貫(ゆきつら)が幕府の海防掛老中に任命されると、そのブレーンに採用されます。

そして佐久間象山は「海防八策(かいぼうはっさく)」を提案しました。

 

島国である日本の安全保障には海防が何よりも重要であるということを指摘した

意見書でした。

これは、その後の明治政府の安全保障の考え方にも影響を与えているという

評価もあります。

 

そして、日本的な学問の伝授法に否定的だった佐久間象山は、

自分の知見を広く教える塾「五月塾」をを開きます。

そこで門弟となった人物は、勝海舟(かつかいしゅう)、吉田松陰、坂本龍馬(さかもとりょうま)橋本左内(はしもとさない)

宮部 鼎蔵(みやべていぞう)など幕末の時代を動かす逸材たちでした。

 

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天才だけど、性格に問題ありすぎの象山

性格に問題ありすぎの象山

 

ここまで、凄い実績のある天才佐久間象山ですが現在の知名度はいまひとつです。

その理由は、その性格に問題がありすぎたせいでしょう。

とにかく、傲岸不遜(ごうがんふそん)で異常なまでに自信過剰で

かなり性格に問題があったというのは事実のようです。

真田幸村

 

佐久間象山は信州の松代藩に仕えていました。

松代藩は真田幸村(さなだゆきむら)信繁(のぶしげ))の兄である信之が藩主となり真田家が治めていた土地です。

佐久間象山が使えたのは、8代藩主の真田幸貫でした。

彼は寛政の改革で有名な松平定信の長男です。

 

当時名君と評価されていた父に負けず劣らず藩政改革や人材登用を積極的に行う藩主でした。

だからこそ、天才でありながらも、性格に問題のありすぎる佐久間象山を登用できたのかもしれません。

 

藩主の幸貫と象山はなんども衝突しています。

そのたびに象山は閉門などの罰をうける非常に扱いにくい人材であったのです。

それでも、真田幸貫には、象山のような天才だけども、

偏狭で自尊心肥大の変人を上手に使えてこそ、名君だという思いがあったのでしょうか。

 

佐久間象山はなんどもトラブルを起こすのですが、真田幸貫は結局、

象山を重用していくのです。


天才・佐久間象山の最期

佐久間象山の最期

 

佐久間象山は吉田松陰(よしだしょういん)の黒船密航事件で連座することになり、

8年間蟄居することになりました。

しかし、その後、象山は15代将軍となる一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)に招かれ京都に出ます。

 

佐久間象山は、慶喜に公武合体論(こうぶがったいろん)開国論(かいこくろん)を説きました。

佐久間象山は「開国攘夷論(かいこくじょういろん)」ともいうべき考えをもっており、

現状の日本の力で攘夷を実行など無理であると合理的に判断していました。

 

そして、攘夷を実行するならば、西洋の進んだ技術を学び、西洋列強に対抗できる力を

日本が身につけねばならないという考え方をもっていたのです。

 

この考え方は基本的には明治政府のスローガンであった「富国強兵(ふこくきょうへい)」に繋がるものです。

しかし、幕末の京都にたむろする攘夷論者から見れば、佐久間象山は西洋かぶれした

国賊に見えたのです。

 

そして、自信過剰な象山はろくな護衛もつけず京都を馬で移動中に暗殺されました。

象山は天才であり、国家戦略、国防については深い知見をもっていましたが、

自分の安全についてはあまりにも自信過剰すぎたのでしょう。


  

 

幕末ライター夜食の独り言

幕末ライター夜食の独り言

 

佐久間象山は間違いなく幕末時代の中で最も西洋の技術の接近し、

理解していた人物のひとりでした。

そして、時代を超えた合理的な思考の持ち主であり、学問だけではなく、

実際の日本の政治方針にも影響を与える考えを提示していました。

 

ただ、あまりに時代を超えすぎていたこと、象山という人材の持つ価値は、

当時の情報の伝達や正確性を考えると、

普通の攘夷論者には分かりようがなかったのでしょう。

結果として、象山は暗殺という形で生涯を閉じます。

 

もし、彼が生き延び、その後の日本に影響を与え続けていたら、

その後の歴史の流れはどうなっていたのか?

佐久間象山は私にそのような夢想をさせてしまうほどの天才です。

 

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