明治維新以降、大日本帝国の近代化の象徴であり、
強国の象徴となっていったものは強力な海軍力でした。
海洋国家である日本は、海軍力の拡充に行い、明治時代に清を破り、
ヨーロッパ列強であるロシアの艦隊にも勝利する海軍を作り上げました。
近代日本の象徴でもある日本海軍の基礎を作ったのが勝海舟です。
そして、それは近代日本を切り開く原動力となっていきます。
明治を生きた勝海舟は、
その強くなり近代日本を引っ張る海軍を見つめ、予言めいたことを語ったのです。
今回は勝海舟と日本海軍について、その成功の原因を調べてみました。
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この記事の目次
開国して海軍の必要性を痛感した江戸幕府の取った行動とは?
徳川幕府は大名に対し大型の軍船を作ることを禁じていました。
商船に関しても、沿岸航海と積荷の上げ下ろしの効率化、
喫水が浅く運河航行も可能であることという経済的な要求により
「和船」の技術もガラパゴス化しています。
決して技術力が低いわけではないのですが、
あまりにも用途が限定された船になってしまったのです。
ペリーの来航を受け、まず大船建造禁止を止めるように
幕府に建白したのは、島津斉彬でした。
当時の老中の阿部正弘はそれを受け入れます。
この老中・阿部正弘と有力な幕臣であった大久保一翁に見出されたのが勝海舟でした。
勝海舟は大砲、蘭学の研究をしており、
佐久間象山とも縁続きで当時の幕府の人材としては技術者として、
傑出した能力を持っているとみられていました。
ペリー来航により、広く意見を求めるという方針を老中の阿部正弘はとりました。
勝海舟はその際に「海防意見書」を幕府に提出しました。
これが、幕府中枢の目に留まり、
長崎海軍伝習所でオランダ人教官から教えを受け、海軍伝習所京都になります。
そして、幕府は西洋式の軍船の建造と人材の育成を行っていくのです。
アヘン戦争があり、ペリー来航の問題は、日本人の安全保障意識を高めました。
そして、日本の安全保障に必須な海軍力育成のための、
人材について高い教育水準の人材を抱えていたことが、
日本の他の非西洋諸国にはないアドバンテージであったでしょう。
西洋に追いつけ!幕府が見せようとした日本人の意地とは?
咸臨丸は、幕府から購入した軍船です。
コルベットという種類の軍船で今でもこの呼称は一部の海軍に残っていますが、
当時はやや小型の軍船という程度の意味です。
これより大きな軍船をフリゲート艦といいます。
オランダ人の手によって、オランダから長崎に航行され、長崎海軍伝習所で練習艦となります。
船は外国から買えます。ちなみに咸臨丸は10万ドルでした。
しかし、動かせる人材がいなければどうにになりません。
長崎海軍伝習所では、咸臨丸により最新の西洋の航海技術を学び、
人材の育成を図ろうとしました。
勝海舟は、長崎海軍伝習所で操艦術を学びます。
その後、咸臨丸で太平洋を横断しますが、これはアメリカ人の船長たちの功績が大きいです。
しかし、勝海舟は幕府に対し、海軍士官の養成機関、
軍艦を造るための工廠の建築を提言しています。
そして、海軍人材を育てる事を目的として幕府は、神戸海軍操練所を設置しました。
海軍士官養成と工廠を兼ねた施設です。
そこで勝海舟は坂本龍馬、陸奥宗光、伊東祐亨などに航海術を教え、
海軍人材の基礎となる人材を育成したのです。
勝海舟が播いた種。明治政府を戊辰戦争で勝利に導いたのは「海軍」の力だった
戊辰戦争では小銃と大砲が主武器となります。
陸戦における散兵戦術の採用など、
明治政府軍が軍事的により西洋的な戦術を理解し吸収していた部分はありました。
しかし、戦争行方を決定的にしたのは海軍力の優劣でした。
幕府の陸上戦力も近代化してきますので、
幕府主力軍に限って言えば、かなり近代化の進んだ戦力となっていました。
そうなると、如何に大量の銃弾、砲弾を敵に叩き込めるかが勝敗を分けます。
さて、どうやって大量の銃弾、砲弾を運ぶのか?
海路を使えばより多くの武器、弾薬が運べます。そのための制海権を維持するのが海軍の役割です。
そして、軍艦に搭載した大砲は陸上の大砲とは比較にならない機動力を持っています。
艦砲射撃は、沿岸部に都市の多い日本では威力を発揮します。
戊辰戦争では兵站、火力の運用の面で、海軍力が優れていた明治政府が勝利を得たのです。
その明治政府の海軍にも、旧幕府軍の海軍にも、勝海舟の教え子といえる人たちがいました。
日清戦争で世界中に「日本海軍」をアピールした明治政府。勝海舟はその時?
(画像:黄海海戦Wikipedia)
日本海軍は勝海舟が生みの親で、山本権兵衛が育てたといわれます。
明治政府は初の対外戦争である日清戦争で、優越した海軍力を見せ付けます。
ドイツ製の巨艦「定遠」、「鎮遠」を備えた清国海軍に勝利し、大陸と日本の海上交通路を確保します。
それにより、日本は日清戦争に勝利することができました。
しかし、その海軍海の親である勝海舟は、日本の勝利に対し冷めた言葉を残しています。
戦争に勝ったと威張っていると大変な目にあう。
武力の戦争に買っても経済の戦争に負けたら、国が滅びるといいました。
そして、中国人はその点で日本人より優れているといったのです。
ある意味、後の日中戦争から太平洋戦争に至る道を予言したようなものです。
日本は、中国の国民党政府を武力で打倒できず太平洋戦争に突入してきました。
国民党政府は、ポンドにリンクした新貨幣である法幣制度を作ります。
この法幣によって、大陸での経済戦に日本は中国に負けていきます。
その意味で、勝海舟の言葉はかなり正確に歴史の行く末を見ていたといえるかもしれません。
歴史ライター夜食の独り言
勝海舟より以前に、海軍力が重要であることを唱えた林子平のような人物はいたことはいました。
しかし、時代がそのような人材をまだ要求していなかったのでしょう。
勝海舟という人物の能力と時代の要請がかみ合って、
日本海軍は、対西洋列強に対する安全保障の砦として、
そして、海軍を強化するための造船業の近代化は日本の近代化の推進力のひとつとなりました。
軍艦の建造には、裾野の広い技術を必要とします。そのため多くの産業が発展していくことになります。
海軍の強化に目をつけ、それを幕府に実行させ、
人材を育てた勝海舟はやはり幕末の傑物のひとりででしょう。
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