藤田東湖は水戸藩出身で水戸学の学者です。藤田東湖は1806年に水戸で、父の藤田幽谷の影響を受けて学問に力を入れました。藤田東湖は幕末の水戸藩で徳川斉昭の側近として活躍しますが、安政の大地震で死亡します。今回は藤田東湖と西郷隆盛との接点について取り上げます。
尊皇攘夷を志士たちに広めた藤田東湖
まず、藤田東湖の専攻していた水戸学について紹介します。水戸学とは儒学思想を中心として国学・神道などを融合した学問です。
徳川光圀が日本の歴史をまとめた『大日本史』の編纂に関わった人物が水戸学の大成に関わっています。幕藩体制の当初から水戸藩は徳川御三家でしたが、尊皇の意識を強く持つようになります。次に、藤田東湖が尊皇攘夷をどのようにして広めたのでしょうか。藤田東湖は徳川斉昭が水戸藩の藩主になると、藩政改革の中心人物として推進します。この水戸藩の藩政改革で、藤田東湖の政治手腕が全国に知られるようになりました。
1853年、ペリー来航に伴って、徳川斉昭が幕政海防参与に任命されたとき、藤田は幕府から海防御用掛に任命され、日本一国の政治に関わるようになりました。こうして各藩の志ある藩士は、江戸に来ると東湖の元を訪れたと言われています。西郷隆盛も東湖の元を訪ねた一人です。
藤田東湖と対面した西郷隆盛はどうなった?
西郷隆盛が藤田東湖を初めて訪ねたのは1854年でした。薩摩藩士の樺山三円とともに訪れています。樺山三円は西郷の友人であり、西郷よりも先に江戸藩薩摩邸で勤務していました。西郷は藤田東湖の評判を樺山三円から聞き、会いたいと思うようになりました。
初めて西郷は東湖と対面します。西郷は東湖の学識・胆力・人柄・態度に大きな感銘を受けました。初めて会ったときの東湖の印象については西郷隆盛全集の中で書かれています。初対面以来、西郷は頭語の家に出入りするようになり、水戸藩の名士と盛んに交流するようになりました。
藤田東湖と出会ったことで、西郷の自己啓発になったばかりでなく、若き日の西郷の人物形成に多大な影響を与えることになったと考えられます。しかし、安政の大地震で藤田が死亡したことにより、水戸藩士との交流は続かなくなりました。藤田東湖の死後、水戸藩を二分する天狗党の乱が起こりました。
黒船来航!その時藤田東湖は?
1824年、水戸藩の大津浜にイギリス船が漂着しました。藤田東湖は父の幽谷から漂着したイギリス船の乗組員を斬るように命じられましたが、既にイギリス人の乗組員は解放されていて立ち去っていました。このイギリス船の漂着事件に対して、幽谷の門下生から外国船の処分に対して生ぬるいと激高します。門下生の会沢正志斎らが攘夷を行うべきだと主張し、水戸藩の藩政改革につながりました。
1827年に水戸藩の藩主が徳川斉昭になると、斉昭の側近として藩政改革を始めます。藩政改革の主な内容は、貧民救済・質素倹約の実行・藩校弘道館の開校・学問振興・廃寺です。東湖は学問振興と廃寺で寺を取り壊すことによって尊皇攘夷を広めることに成功しました。
藤田東湖の死と幕府の衰退
ペリー来航に伴って、徳川斉昭が海防参与として幕政に参加することになりました。東湖も江戸藩邸に呼び出され、江戸幕府海岸防禦御用掛として斉昭を補佐することになります。徳川斉昭と言えば、過激な尊王攘夷派で有名です。斉昭は攘夷派であると同時に西洋の技術を取り入れることも考えた人物でした。
当時の老中阿部正弘に黒船を急襲して乗っ取ることを提案しますが、阿部は斉昭の考えを断りました。既にペリーに親書を渡していたことが分かり、斉昭と藤田の努力は無駄に終わりました。1855年、藤田は安政の大地震により50歳で死亡しました。その後、幕府は安政の大獄で尊王攘夷派を弾圧しますが、井伊直弼が暗殺されたことで求心力が低下し江戸幕府は滅亡へのカウントダウンを開始します。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は藤田東湖について取り上げました。藤田東湖を振り返ることによって水戸藩が尊皇攘夷運動のきっかけになったことが分かりました。水戸藩と言えば御三家の中で尊皇で有名な藩ですが、水戸黄門で有名な徳川光圀の『大日本史』から幕末の水戸藩の尊皇攘夷運動に至るまでの経緯に注目したいと思います。
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