孔子は「政事のことは冉有と季路に任せておけば良い」と太鼓判を押していますが、『論語』から浮かび上がる冉有像は政事でバリバリ手腕をふるっているとは言い難いような…。何だか頼りない冉有ですが、一体彼のどのようなところが政事に向いていたのでしょうか?今回は彼のエピソードをいくつか取り上げ、その政事手腕について迫ってみたいと思います。
孔子「あいつ止めろ!」冉有「無理です」
その昔、魯には季孫という臣下がおりました。ところが、この季孫、臣下の分際で臣下らしからぬ振る舞いをするということで礼を重んじる人々からは眉を顰められる人物でした。
ある日、この季孫が「泰山で旅を執り行う!」と言い始めたため、人々はざわめきました。旅というのは山や川を祭る儀式なのですが、これはその領地を治めるトップたる諸侯が執り行うもの。それを一臣下に過ぎない季孫が自ら執り行うというのです。
孔子はその話を聞き、季孫に仕えている冉有に「あいつを止めることはできないのか?」と尋ねます。しかし、「無理です」と即答する冉有…。(『論語』八佾篇)これには孔子もガッカリです。師の頼みさえ受け入れられないほど冉有は季孫にビビっていたのか、はたまた、冉有は孔子の頼みよりも季孫の補佐に専念していたのか…。
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孔子「もっと積極的になれ」冉有「はぃぃ…」
孔子は冉有が消極的であるが故に季孫を正しい道に導けないのだと考えていたようです。孔子は冉有に「聞いたことはすぐに実行した方がよいのでしょうか?」と尋ねられたとき、「すぐに行え!」と背中を押しています。それを傍から見ていた公西華が、孔子が冉有と同じ質問をしてきた子路(季路)に対して「ちょっと考えてからにしろ」と言っていたことを思い出し、なぜ2人に対する答えが異なるのかを孔子に尋ねました。
すると孔子は「冉有は消極的すぎるから背中を押し、子路は行き過ぎるところがあるから抑えたのだ」と答えたのでした。(『論語』先進篇)
また、冉有は孔子に「自分に力が無いが故に、先生の道を学ぶことができません」と吐露したこともあります。これに対し、孔子は「本当に力の足りない者は進めるだけ進んでやめてしまう。お前は力があるのに自分から見切りをつけているだけだ」と激励する言葉をおくっています。(『論語』雍也篇)孔子は能力があるのに卑屈で消極的な冉有をなんとかして積極的な人に仕立て上げたいと考えていたのです。
孔子「あいつやっぱりアカン…」
ところが、師の願いは冉有になかなか伝わらなかったらしく、孔子も度々苛立ちを募らせています。
そんな孔子の冉有に対する怒りが爆発しているエピソードがコチラ。
季孫は巨万の富を得て裕福に暮らしていたのですが、それでも季孫のために民草から税を取り立て続けている冉有に対し、孔子は「あいつは私たちの仲間ではないね。君たち、太鼓を打ち鳴らして攻めていいぞ。」と言い放っています。(『論語』先進篇)
事実上の破門宣告…!これには冉有もドキッとしたことでしょう。
孔子は諫めるべきときに諫めることもせず、ただただ季孫の言うことをホイホイ聞いているだけの冉有にガッカリどころか絶望してしまったのでしょうね。どんなに叱咤激励されても師の期待に応えようとしない冉有…。一体彼は孔子のもとで何がしたかったのでしょうか?
三国志ライターchopsticksの独り言
実はこの冉有、目の前の困った人を助けずにはいられない質だったのかもしれません。同門の公西赤が斉にお使いに出かける際、冉有は一人残される公西赤の母を助けるために穀物が欲しいと孔子に願い出ます。
すると、「一釜分だけあげなさい」と答える孔子。これを受けて冉有はそれでは少なすぎると孔子に訴えました。孔子は仕方が無く「では2釜とその半分くらいの量の穀物を与えなさい」と譲歩。ところが、それでも足りないと考えた冉有は、125釜分くらいの大量の穀物を公西赤の母に届けたのでした。(『論語』雍也篇)実は、公西赤の家は裕福で、その母を物質的に支援する必要は全く無かった様子。
それでも、心優しい冉有は放っておくことができなかったのでしょう。そんな冉有は季孫に仕えているときも、困った人だと思いながら、目の前で困っている季孫を助けずにはいられなかったのかもしれません。そして、その善悪はともかく、季孫のもとでキビキビと政事をこなす冉有の手腕を孔子は評価していたのでしょう。
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