もはや孔子の名を知らないのは小学生以下のお子ちゃまくらいのものでしょうが、孔子がどんな半生を送ったかについては意外と知らない人が多いのではないでしょうか?
特に、彼がどのような家庭に生まれ、どのような子供時代や青春時代を送ったのかを知る人はほとんどいないでしょう。というわけで今回は、孔子の幼少期から青年期にスポットをあてて彼がなぜ儒教という立派な思想を打ち立てて聖人となれたのか、その秘密に迫っていきたいと思います。
パパとママの年齢差には加藤茶もビックリ!
孔子が春秋時代の魯の国に生まれたことを知る人は少なくないでしょう。しかし、彼のパパとママがどんな人なのかまで知っているという人はなかなかいないと思います。
彼のパパやママについては、司馬遷『史記』などの書物にその記述が散見されます。パパの名前は叔梁紇と言って、魯でも有名な武人だったそう。そして、ママの名前は顔徴在。身分はそれほど高くない巫女だったようです。しかしこの2人、とんでもなく年が離れていたと言われています。孔子が生まれたとき、パパは70歳を超えていたのに対し、ママは16歳もしくは18歳!
パパについては66歳との説もありますが、それにしたって親と子どころか孫と子くらい離れているこの年齢差には加藤茶もビックリしてしまうでしょうね。そしてさらに、この2人、どうやら正式に結婚していなかった模様…。2人に一体何があったのかはわかりませんが、孔子も幼少期はかなり苦労したのではないでしょうか。
葬式ごっこという不気味な遊びを好む
パパと呼ぶには年をとりすぎていた叔梁紇は、やっぱりと言うべきか、孔子が3歳になったときに亡くなってしまいます。その後は女手一つで孔子を育てた若き母・顔徴在。現代も母一人で子を養うのは大変ですが、その当時は更に大変だったことでしょう。
孔子はこの苦労する母の姿を見て育ったため、「孝」という考えを特に大切にしたのかもしれません。そんな彼は巫女である母の影響を色濃く受けたのか、葬式ごっこなる不気味な遊びに興じていたのだそう…。実は、後に「亜聖」と称される孔子の弟子・孟子は墓地の近くに住んだ際に葬式ごっこをしていたのを母に目撃され、「墓の近くに住んでいるから我が子が…!」とビビった母によって引っ越しさせられています。
孟子のママは許してくれなかったようですが、巫女である孔子のママ・顔徴在は「私の真似ばかりして…」と微笑ましく思っていたのかもしれません。しかし、そんな孔子のママも孔子が17歳のときに亡くなってしまいます。たったの17歳で天涯孤独となってしまった孔子でしたが、独学で礼を学び続けたと言われています。
立つよりもまず結婚
孔子のパパは70歳前後で孔子という子をもうけましたが、孔子は彼を反面教師にでもしたのか、わずか19歳で結婚して20歳で第一子をもうけています。
でも…あれ?ちょっとおかしくないですか?孔子は自分の半生を振り返って、次のような言葉を残していますよね。
吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。
まだ立ってないのに、先に結婚しちゃってるじゃないですか!実は、孔子がはじめて魯に仕官したのは28歳。無職なのに家庭を持っちゃっています。
まぁ、「三十にして立つ」というのは学問を十分に修めて弟子をとれるようになったということなのですが、それにしたってやっぱり無職だったわけで…。しかし、天涯孤独だった孔子を可哀想に思った誰かが孔子に家族をつくってやりたくてはやく結婚させたと考えることもできるかもしれません。孔子は一家の主としてというよりも、入り婿のような形で妻の実家にお世話になっていたのかもしれませんね。
三国志ライターchopsticksの独り言
父には早くに死なれ、死者の魂を鎮める母の姿だけを見て育った孔子が特に礼に興味を抱いたというのは十分頷けることでしょう。礼に深い思い入れがあった孔子は、魯の国で礼がまともに執り行われていないことを嘆き、周代の礼を復活させて世を導いてくれる理想の主君を求めて旅をするようになります。
早くに亡くなってしまったとはいえど、彼を偉大な思想家に育てたのは間違いなくその母・顔徴在だったのです。
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