儒教の祖とされる孔子は、いつも心に理想の国とは何たるかを描き、それを説いて回って生涯理想の主君を探し求めた人でした。そんな孔子が理想の国家としていたのが、周王朝です。乱れに乱れた春秋の世を治めるためには、周王室の礼楽制度を再興させ、人々を徳の力で治めることが重要であると考えたのです。ところで、孔子が理想とした周とは、一体どのような王朝だったのでしょうか?
殷の暴君・紂王に立ち向かった西伯侯
殷王朝の最後の王となった紂王は頭脳明晰な上に武勇にも長けていました。そんな紂王は幼い頃から期待の眼差しを受けて育ったのですが、そのためかすっかり奢り高ぶってしまい、臣下の言葉にも耳を貸さない暗君になってしまいました。絶世の美女・妲己を妾として迎えてからは、民に重税を課して贅沢三昧の日々を送り、気に入らない者には恐ろしい方法で死を賜ったと言われています。
そんな紂王に反旗を翻したのが、後に文王と称される西伯侯・姫昌でした。姫昌は紂王による残酷な処刑を見てため息をついたことについて北伯侯である崇侯虎に讒言されて一度幽閉され、あろうことか長男の伯邑考のスープを食べさせられてしまいます。
その後なんとか釈放された姫昌は紂王を倒そうという思いを胸に秘めながら、紂王に野望を悟られないよう少しずつ領土を広げ、軍師として太公望・呂尚を迎えました。ところが、道半ばで姫昌は亡くなってしまいます。そこで、父の想いを継いだのが、次男坊の武王です。
武王は太公望や弟の周公旦の力を借りて牧野の戦いで殷を破り、ついに周王朝を立てるに至ったのでした。
周公旦のナイスフォロー
なんとか周を興した武王でしたが、建国後ほどなくして亡くなってしまいます。その後、まだ幼かった成王が即位したのですが、やはり建国間もない不安定な時期だったため、周公旦が摂政となって代わりに政治を取り仕切りました。
その後成王が成長しきる前にちょっとした反乱があったものの、周公旦が摂政の位を退いて成王が政治を取り仕切るようになってからその子の康王の時代に至るまで特に問題は起こらず、40年にわたって刑罰を用いずに人々を治めたと言います。
東西に分裂
王の徳によって人々を治めてきた周王朝ですが、代替わりしていくにつれてその政治に陰りが見えるようになっていきました。諸侯の不満は代を経るごとに募っていき、いよいよ幽王のときに爆発します。幽王が褒姒という宮女に夢中になるあまり、諸侯の国である申から迎え入れた皇后を廃してしまいます。これに怒り狂った申は、異民族・犬戎とともに周の都にカチコミをかけ、幽王と、褒姒の子である伯服を殺害します。
これを受けて西・鎬京を携王が即位するのですが、申をはじめとする諸侯たちが猛反発。俺らは俺らで新しい王を立てちゃおうということで、携王の兄弟である平王を東・洛邑で即位させます。かくして周は西周と東周に分裂し、最終的に諸侯のバックアップを全面に受けた東周が西周を呑み込みました。こうして時代は春秋時代に突入します。
秦によって命脈を絶たれる
春秋時代にもなると、周王朝はもはやお飾りのような存在でしかなくなってしまいました。それどころか、諸侯の中には王を名乗る者まで現れ出し、チラチラと周王朝に取って代わろうという意志を示す者が続出する始末。周王朝はいつ消えてもおかしくない存在となっていました。
そしてついに、その命脈が尽きる時が訪れます。もはや一諸侯のような存在になってしまっていた周王朝ですが、またもや内部分裂を起こして西周と東周に分かれてしまいます。そんなわけで、西周と東周が周辺の諸侯を巻き込んでやいのやいのやっていたわけですが、西周が秦の邪魔をしたために秦にブチギレられ、秦の猛攻を受けて滅亡してしまいます。
その後も東周の方は数年存続し、多くの諸侯の力を借りて強大になりすぎた秦を滅ぼそうとしましたが、返り討ちに遭って逆に滅んでしまいました。こうして周王朝は歴史から完全に姿を消したのでした。
三国志ライターchopsticksの独り言
女に狂った紂王を倒して興った周王朝でしたが、最終的には女に狂った幽王によって破滅の道を歩むことになってしまいました。やはり女は恐ろしいですね…。しかし、女よりもなによりも周王朝を興した者たちの志が受け継がれなかったことが、王朝滅亡の最大の原因と言えるでしょう。姫昌や武王、そして周公旦、太公望たちの志が代々受け継がれていたら、周王朝が滅びることはなかったかもしれません。
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