『史記』をはじめとする二十四史を刊行していることで有名な中華書局はここ数年で修訂本を刊行しています。最新の研究に基づき、新たな校勘記が付された修訂本は中国史を研究する人ならぜひ手元に置いておきたいものです。
中華書局が出版する二十四史のおかげで私たちは『史記』をはじめとする史書を容易に読むことができるのですが、中華書局がそれらを編纂する際に役立てたものとしてその名を挙げられるのが銭大昕の『廿二史考異』です。銭大昕や『廿二史考異』という言葉を世界史の教科書で見かけたという人もいるのではないでしょうか?
今回は銭大昕とはどのような人物であるかについてご紹介したいと思います。
そもそも考証学とは?
銭大昕は清代に活躍した考証学者として有名な人物です。しかし、「そもそも考証学とは何なのか?」と疑問に思う人も少なくないでしょう。考証学とは清代に興った学問であり、古の文献に客観的な証拠を求めてそれに基づいて古の文献の本来の姿を取り戻し、その文献を著した古の人々の心を読み解こうとする学問です。
遠い時代の書物ほど、時代を経るごとに文字が変わったり伝写していくうちに書き損じられたりして本来の姿がわからなくなってしまいます。そうすると、その書物を著した人の考えや思いが正確に伝わらなくなってしまいます。考証学はそんな現状を打破すべく「実事求是」という標語を掲げた顧炎武などをはじめとする学者たちによって興った学問なのです。
経学考証の手法を史学考証に応用
そもそも考証学というものは、経書の研究についてだけ行われていた学問でした。
宋・明代に流行した理学というものが経書の文字を半ば無視して経書を好き勝手な解釈をしていいという残念な学問に成り下がってしまっていたため、これはいかんと考えた学者たちが奮起して一字一句の解釈を大切にする経学考証の学問が興ったのです。そんな経学考証の手法が歴史書の研究にも役立てられるのではないかと考えたのが乾隆帝の時代に活躍した学者である銭大昕でした。
銭大昕は『史記』から『元史』までの二十二史の文字をひとつひとつ丁寧に追い、疑問に思ったことについては歴史書に限らず経書や子部に分類される諸子百家、さらには集部に分類される文学集までくまなく調べ上げ、歴史書の真の姿を再現しようと尽力しました。また、彼の考証は歴史書に付された注にも及んでおり、その子細な考証は経書でいうところの「疏」の役割さえ担っているのではないかと思われるほどです。
そんな彼の史学考証の大著といえば『廿二史考異』です。この書物は同時代の学者たちの心をも震わせました。銭大昕に触発された王鳴盛は『十七史商榷』を、趙翼は『廿二史劄記』を著しています。しかし、この2人の書物は歴史書評論の嫌いが強く、銭大昕のようにつぶさに文字を追い、正しい史書の姿を求めているようには感じられません。銭大昕の史学考証によって成った『廿二史考異』こそが、真の考証学の姿を体現している傑作といえるでしょう。
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暦算術や天文学も史学考証に応用
銭大昕の史学考証において特に称賛されている点は西洋の数学の知識をも駆使して考証を行っているということです。同じく史学考証に励んだ王鳴盛などは、史書に見える年月の記述については他の書物を当たってみればその正誤がわかるものだと豪語していました。
しかし、銭大昕は他の文献に当たるだけではなく、暦算術や天文学を用いて細かい計算を行い、その正誤を判断していたのです。どちらの方がより正確な考証をすることができるかは火を見るより明らかでしょう。顧炎武などの学者によって成った考証学の手法を踏襲しつつも、新しい西洋からの学問を取り入れながら正確に考証を行おうと尽力した銭大昕の姿勢は当時の考証学者としても珍しいくらい学問に対して真摯であったといえるのではないでしょうか。
三国志ライターchopsticksの独り言
銭大昕は今の上海に生まれ、そこに行幸した乾隆帝に賦(長うた)を献上した結果見出され、中央に召し出された秀才でした。このように、銭大昕は詩文も得意だったようです。まさに博学才穎の人だった銭大昕。彼のあらゆる業績は、今日の学者たちの研究を地味ながらサポートし続けています。