『小松帯刀、西郷どんでの役割について考えてみよう!』では、小松帯刀の人柄を中心に、西郷隆盛との逸話とアーネスト・サトウが小松を最も魅力的な人物と評価したことについて取り上げました。
今回は小松帯刀の人柄ではなく、実績について紹介します。西郷隆盛や大久保利通と比べると、小松の実績はあまり知られていません。具体的な小松帯刀の実績について取り上げます。
小松帯刀の名前って本当?
小松帯刀は1835年に喜入領主・肝付兼善の三男として生まれました。少年の頃は通称として尚五郎と名乗っていました。1856年、22歳の時に吉利領主・小松清猷の養子となり、家督を相続します。養子になった頃に清猷の妹・近と結婚しました。このとき、名前を小松清廉と名前を変えています。小松清廉が本名で、大河ドラマなどで出てくる帯刀という名前は通称として使っています。
小松帯刀の実績を見てみよう
小松帯刀は薩英戦争後に西洋化に向けて積極的な活動をします。薩英戦争では水雷を鹿児島湾に設置し、イギリス軍を迎え撃ちました。薩英戦争後に集成館で蒸気船機械鉄工所の設置に尽力します。禁門の変で京に攻め上ってきた長州藩を破りました。朝廷から幕府に長州藩を征討するよう勅命が下りますが、第一次長州征伐で長州藩を降伏させ、戦争を回避することに成功しました。長崎に出向すると、武器商人グラバーと交流を持ちます。ミニエー銃を大量に購入することに成功しました。
また、五代友厚らをイギリスに留学させることにも成功しました。長崎で長州藩の伊藤博文らと交流を始め、後に薩長同盟につながります。大政奉還後、明治維新において、島津久光に率先して版籍奉還を行うよう説得しました。小松帯刀の実績を見ると、かなりの実力者でした。小松は少年の頃から病弱で、様々な病気に悩まされ、35歳の若さで死亡しました。
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その功績を果たせた理由って何だろう?
小松帯刀は28歳の若さで島津久光に認められ、薩摩藩の家老になりました。
小松は家老になると、造船などの工場が集まる集成館を管理しました。長崎に出向すると軍艦などの西洋式の海軍知識を習得しました。小松の得た知識は後の戊辰戦争にも活かされます。小松は交渉能力に長けていて、幕府や他藩の交渉の窓口役を担いました。小松の交渉能力については第一次長州征伐で長州藩を全面降伏させたことや薩長同盟の成功につながります。小松は病弱で湯治に通っていましたが、湯治場で身分に関係なく様々な人々と交流したことが交渉能力の向上につながったのかもしれません。
「小松なくして維新なし」維新プロデューサー小松!
島津斉彬が急死してから島津久光が薩摩藩の国父として実権を握ります。久光は家老の筆頭に小松帯刀を任命し、藩の全権を託しました。小松は藩の役職に最適任者を置き、藩政を行いました。小松が家老に任命されたことで、西郷隆盛や大久保利通のような下級武士で能力のある人が登用されました。
薩英戦争について、イギリスの海軍が一地方貴族に負けたと新聞で報道されると、国民感情による突き上げがいっそう高まる可能性があります。小松はこのようなイギリスの国民感情を考慮し、家族への扶養当てを出す提案をしました。また、グラバー紹介を通じて最新の武器・大砲・弾薬をイギリスに供給することを約束させることにも成功しました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は人柄とは異なり、小松帯刀の実力について紹介しました。小松帯刀は西郷隆盛や大久保利通を超える有能な人物として評価されましたが、病気がちで35歳の若さで死亡するため表舞台に小松帯刀の名前が出にくいのが特徴です。小松が病弱でなければ、小松帯刀の名前が歴史上の表舞台に西郷隆盛・大久保利通・坂本龍馬ら有名人と同じくらい出たのかもしれません。今後の『西郷どん』の小松帯刀に注目したいと思います。
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