『平野国臣の桜島歌「我が胸の・・・」知ろう!』では、平野国臣の「我が胸の・・・」で始まる桜島歌について取り上げ、歌碑がある福岡市の平野神社を紹介しました。平野神社の近くにある西公園には銅像があることも取り上げましたが、銅像については詳しく紹介しませんでした。
この記事では、最初に平野国臣の銅像について取り上げます。次に、生野の変で捕らえられた平野国臣の「どんどん焼け」事件と辞世の句について取り上げます。
平野国臣の銅像があるよ!
平野国臣は福岡藩の藩士でした。平野国臣を祀る神社として平野神社が福岡市の中央区今川にあります。平野神社の境内には「我が胸の・・・」で始まる桜島歌の歌碑があります。平野神社の近くに西公園があり、その公園内に平野国臣の銅像があります。この銅像は大正時代に作られましたが、昭和39年に再建されている記録が残されています。
平野国臣の銅像には碑文があります。碑文のタイトルは「平野二郎國臣先生について」で、内容は次の通りです。1828年、福岡藩の家に生まれ、少年の頃から史書を読み、詩歌に秀でていました。
ペリーの来航で混沌としていた時代で、尊皇攘夷派の志士として討幕を画策しました。安政の大獄で弾圧が厳しくなると、薩摩に逃れ、入水自殺した西郷隆盛を救出します。薩摩藩主に討幕に向けて説得しましたが、うまくいかず福岡藩に捕らえられました。獄中でこより文字を編み出して、和歌や論考を執筆しました。
福岡藩の牢から出ると大和国の天誅組の変と呼応する形で生野の乱を起こしますが、失敗に終わり、逮捕されました。京都で禁門の変の火災を口実に殺害されました。享年37歳でした。この平野国臣の銅像の碑文は故金子堅太郎氏の追慕碑文をもとに書き改めたものです。この碑文には先生と表記されていますが、先生とは平野国臣のことを指します。
生野の変について知ろう
生野の変とは但馬国生野において、平野国臣ら尊王攘夷派の志士が挙兵した事件です。但馬国生野とは生野銀山で有名な場所で江戸幕府の直轄地でした。生野の変は、大和国で起こった天誅組の変と呼応して反乱を起こす計画でしたが、天誅組が先に壊滅していました。平野は生野で反乱を起こすことを中止することを主張しますが、強硬派が勝ち、反乱を起こすことになりました。
生野銀山は幕府の直轄地でしたが、直轄地で尊王攘夷派が反乱を起こしたことにより幕府に衝撃を与えることになりました。
「どんどん焼け」事件、平野国臣の最後とは?
禁門の変は1864年に京都を追われた長州藩が挙兵して攻め上った事件です。禁門の変で火災が発生し、京都の町のほとんどが消失しました。史料によれば、長州藩邸と堺町御門付近から出火し、北東の風に乗って延焼しました。当時の京都の人々はこの火事のことをどんどん焼けと呼びました。平野国臣は拘留されていた獄舎に延焼したことから、役人は囚人が脱走することを恐れ、未決状態の囚人を処刑することを決断しました。平野国臣は未決状態でしたが、禁門の変の火災を口実に処刑されました。
「見よや人嵐の庭のもみじ葉はいずれ一葉も散らずやはある」
この「見よや人嵐の庭のもみじ葉はいずれ一葉も散らずやはある」という句は平野国臣の辞世の句です。
「人よ嵐の庭のもみじ葉を見なさい。
いずれ一葉も散らないでいるのでしょうか。
いやそうではない。」
という意味です。平野は、未決のまま処刑されることになった自分の運命と、嵐の果てに全ての紅葉が散ってしまう情景を重ね合わせたのかもしれません。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は、平野国臣について銅像の碑文から人物像を知ることができました。少年の頃から史書や文学を読み、詩歌に秀でていたことから牢屋でこより文字を編み出しました。
「我が胸の・・・」で始まる桜島歌を詠んでいることから才能を発揮していると言えるかもしれません。平野国臣は先駆者であるという評価もされています。今後、先駆者としての平野国臣に注目したいと思います。
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