漫画の「東周英雄伝」に「黄泉相見」という話が載っています。
これは母親といざこざがあって親孝行できないと嘆いている主君にちょっとしたアイデアで親孝行できるようにさせてあげた潁考叔という人の話です。
「東周英雄伝」では潁考叔のことを「二十四孝」の一人であると紹介していますが、元の郭居敬が編纂したといわれる『二十四孝』には
潁考叔は入っておらず、中国の子供向けの教材『徳育課本』の中で二十四孝に入っています。
「東周英雄伝」の潁考叔は素朴な猟師のおじいちゃんでしたが、『春秋左氏伝』によると、猛々しい戦士だったようです。
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中国の教材『教育課本』を読んでみよう
『教育課本』は女性や子供向けの道徳の教材として1930年に蔡振紳という人が編纂したもので、現在でも簡体字に翻印されて読み継がれています。
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【考叔舍肉】考叔舍肉。諷悟荘公。隧泉見母。其楽融融。
(考叔肉を舎き、諷して荘公に悟らしむ。隧泉に母に見え、それ楽しみて融融たり)
↑こんな文章のあとに、説明文が書かれています。
周代の鄭国の潁考叔は潁谷の境界警備人である。
鄭国の君主・荘公は母親とは黄泉(あの世)に行くまで会わないと誓っていたが、それを後悔しているという話が潁考叔の耳に届き、
潁考叔は荘公に会いに行った。
荘公が潁考叔に食事を賜ると、潁考叔は肉を残した。
なぜ残すのかと荘公が尋ねると、潁考叔はこう答えた。
「私には母がおりますが、いつも私の用意するものを食べていて、ご主君の羹を食べる機会はありませんので、これを母にあげたいと思います」
荘公は言った。
「そなたには肉を食べさせてあげることのできる母がいるのに、私には母がいない」
潁考叔は言った。
「ご主君、嘆かれることはありません。地下水が出るところまで地面を掘り、地下でお会いになればよろしいのです。
そうすれば黄泉に行くまで会わないという誓いを破ったことにはなりません」
荘公はこれに従って母親ともとどおりの仲に戻ることができた。
古代中国では、黄泉は地下にあると思われていました。
『春秋左氏伝』に書かれている荘公と母親
魯の年代記『春秋』は紀元前722年から始まっていますが、その年の記録として次のような文章があります。
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夏五月鄭伯克段于鄢
(夏五月、鄭伯 段に鄢に克つ)
――
この部分に対する左氏の伝(注釈)によれば、鄭の荘公は逆子で生まれたため
母親に嫌われており、母親は荘公の弟の共叔段を可愛がって、荘公が位につく前は共叔段を太子にしたいと思っていたそうです。
荘公が位についた後は、母親は共叔段によい土地をやってくれと荘公にお願いしました。
いい土地をもらった共叔段は立派な城壁をかまえ、周りの都市も服従させ、着々と勢力を増し、ついには母親と共謀してクーデターを企てました。
荘公はこれを鎮圧して、共叔段は国外へ逃亡。荘公は共叔段と共謀した母親を潁に幽閉し、あの世に行くまで二度と会わないと誓いました。
そうして後悔していると、幽閉の現場の潁から潁考叔が会いに来て、穴を掘って会えばいいじゃんとアイデアをくれたという次第です。
潁考叔は潁の名士であり戦士
潁考叔は荘公の母親が幽閉されているのを間近に見て、見かねて荘公に会いに行ったのでしょう。
『春秋左氏伝』では封人(境界警備人)と書かれていますが、潁の潁考叔さんですから、現場のトップみたいな人だったのではないでしょうか。
(春秋時代は任地が苗字になることが多い)
春秋時代は主君からお給料ではなく土地をもらいますので、潁考叔は潁に土地を持っている名士だったことになります。
「東周英雄伝」では田舎の素朴な猟師のおじいさんが、親子の真心のことしか分からないけれどもご主君にアイデアを言いに行ったというふうな
描かれ方がしていますが、実際の潁考叔は有事の際に四頭立ての馬車に乗って戦うような士大夫戦士だったろうと思います。
潁考叔の最期
『春秋左氏伝』には潁考叔の最期が記されています。
荘公が母親と仲直りしてから十年後、荘公は隣国の許に戦いをしかけようとしていました。
荘公が戦の準備のために兵器を祖廟に用意すると、公孫閼と潁考叔が戦車を奪い合いました。
(二人ともおんなじ馬車が気に入ったんですかね)
潁考叔が車の轅をつかんでスタコラサッサと駆け出すと、公孫閼は戟を持って潁考叔を追いかけました。
(ニャロー、ぶっ殺す!って感じですかね)
大通りまで追いかけましたが追いつけず、公孫閼はプンスカ怒りました。
戦が始まったのはその翌々月のことです。
潁考叔は荘公の旗を持って真っ先に許の城壁によじ登りました。
その時、公孫閼が下から潁考叔を狙って矢を放ち、潁考叔は城壁から転落して死亡しました。
他の人が荘公の旗を持って城壁を登り、戦いは鄭の勝利に終わりました。
戦後、荘公は国民百人ごとに雄豚を、二十五人ごとに犬鶏を供出させ、潁考叔を射た者に呪いをかけさせました。
『春秋左氏伝』ではこのあと、荘公のふるまいに対する君子のコメントを記しています。
「鄭の荘公政刑を失えり。政は以て民を治め、刑は以て邪を正す。既に徳政無く、又威刑無し。
是を以て邪に及べり。大臣睦まず、又刑を邪人に用ゆること能わず。邪にして之を詛うとも、将に何の益かあらん」
↑これは、“呪いで人を処罰するようないいかげんな政治をしているから臣下がもめたんでしょ”って言いたいようです。
三国志ライター よかミカンの独り言
この様子からすると、潁考叔は荘公のお気に入りの戦士だったようですね。
城壁をまっさきによじ登るほどですから、よほどの猛者です。
私は「東周英雄伝」のおじいちゃんのイメージがあってから『春秋左氏伝』を読んだので、ちょっと驚きました。
荘公のイメージも少し違っていて、「東周英雄伝」では弟が謀反を起こしたから泣く泣く討ったように見えますが、
『春秋左氏伝』では弟が増長するのをわざと見逃しておいて、ここまで狼藉を働かせればもう肉親といえども征伐したって
誰も文句は言うまいというギリギリのところまで我慢してから周到に弟を始末しています。
猛々しい戦士と、腹に一物も二物もありそうな君主。
これはちょっと、「東周英雄伝」とはずいぶん絵面が違うなぁと思いました。
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