西郷隆盛
今回は征韓論について取り上げます。征韓論は西郷隆盛と帰国した岩倉使節団との対立のきっかけになり、不平士族の反乱のきっかけにもなりました。最初に、征韓論の概要と当時の明治政府と朝鮮半島との関係について取り上げます。この記事の終わりで征韓論を主張した政治家について取り上げます。
李氏朝鮮とは?
興宣大院君
李氏朝鮮は李成桂が高麗を倒して、建国した国のことです。建国当初から明に服属し、明の滅亡後は満州族の清に反発した為に攻められ敗北。以後は清の属国になり鎖国を続けていました。
日清戦争の講和条約である下関条約で、李氏朝鮮は中国から独立することになりました。1897年に大韓帝国と国号を買えますが、1910年の韓国併合により滅びました。
江華島事件と日本に有利な不平等条約
江華島事件は1875年に起こりました。日本軍艦雲揚号が朝鮮の江華島で挑発行為を行い、朝鮮から砲撃を受けました。砲撃を受けた日本側が報復攻撃をして、仁川港対岸を占拠した事件のことを言います。江華島事件の講和条約として1876年に日朝修好条規を締結しました。この条約において釜山など3カ所の港の開港、領事裁判権(治外法権)の承認、関税自主権を獲得するなど日本にとって有利な不平等条約でした。
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征韓論と明治六年の政変
明治六年の政変とは明治政府内で征韓論とヨーロッパから帰国した岩倉使節団が対立した政変のことを言います。最初に、征韓論とは李氏朝鮮の鎖国と排外政策を武力で打破し、国交を開くことで勢力を伸ばそうとする考えです。廃刀令などで武士の特権を失って不満を持っている士族のガス抜きとして征韓論を主張するようになったという見方もあります。
次に、帰国した岩倉使節団は視察したヨーロッパで政治体制を学びました。日本の政治体制は脆弱であることから国内政治を優先させなければならないと、大久保利通と岩倉具視らは主張します。
主張の対立の結果、征韓論は大久保利通らの反対によって実現できませんでした。征韓論を主張した西郷隆盛・江藤新平・板垣退助らは明治政府を去りました。この出来事を明治六年の政変と言います。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
ここでは明治政府を去った征韓論派の政治家について取り上げます。江藤新平・前原一誠・西郷隆盛は不平士族の反乱に担ぎ出されます。不平士族による最初の反乱は佐賀の乱です。
『江藤新平と大久保利通、明治の政治闘争について考えよう』によれば、江藤新平が1874年に佐賀で起こしました。佐賀の乱で最初は佐賀城の戦いで優位に進めますが、政府軍は巻き返し、寒津川・田手川の戦いで江藤らは退却しました。
江藤は西郷隆盛に助けを求めるため戦線を離脱し、鹿児島に入りましたが、西郷に断られます。今度は土佐に向かい板垣退助らに助けを求めましたが、断られました。3月29日に江藤は土佐で逮捕されました。臨時でつくった裁判所で形だけの審理を行い、判決当日に斬首となりました。
前原一誠は1876年に萩で反乱を起こしました、この反乱を萩の乱と言います。『前原一誠、萩の乱その戦いとは?』によれば、1876年10月に熊本県で起こった神風連の乱、福岡県で起こった秋月の乱に呼応する形で、前原一誠が不平士族200人を率いて反乱を起こしましたが、萩の乱は1ヶ月足らずで鎮圧されました。前原一誠は逮捕され、処刑されました。
最後に、西南戦争について取り上げます。1877年に不平士族による最後の反乱である西南戦争が起こりました。西郷隆盛は自ら開設した私塾の生徒と不平反乱を率いて反乱を起こしましたが、明治政府軍に追い詰められ、西郷は自害しました。西南戦争でもって不平士族による反乱は終わりました。
明治六年の政変で下野した政治家で、板垣退助は江藤・西郷らと異なり、言論による政治運動を展開します。この言論による政治運動のことを自由民権運動と言います。板垣退助は自由民権運動において、政治結社を立ち上げ、国会の開設を明治政府に建白します。自由民権運動の成果として、明治政府は1890年に国会を開くことを決めました。
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