榎本武揚といえば、
戊辰戦争最後の戦争である函館戦争で旧幕府軍の総大将として戦ったことで有名です。
榎本武揚は函館戦争に明治政府内で駐露公使として
ロシアとの外交問題の処理に取り組みました。
今回は榎本武揚が締結した条約である樺太千島交換条約について取り上げます。
江戸時代における蝦夷地の問題、
樺太千島交換条約、
樺太・千島交換条約後の千島列島と樺太について取り上げます。
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江戸時代における蝦夷地の問題
江戸時代に田沼意次が老中に就任した頃、
蝦夷地にロシア船が接近するようになりました。
当時、蝦夷地については渡島半島で函館辺りに松前藩があるだけで、
幕府は渡島半島より北を支配していませんでした。
幕府は蝦夷地を探検する必要性があると考え、
田沼政権以降蝦夷地の探検家を派遣します。
派遣された探検家の中には近藤重蔵や間宮林蔵らが挙げられます。
幕末になると、日露和親条約を締結します。
日露和親条約において、
日本とロシアの領土が確定しました。
千島列島について、
択捉島と得撫島に国境線が引かれました。
得撫島より以北がロシア領となりました。
樺太については両国雑居となりました。
樺太千島交換条約後の千島列島・樺太
明治時代になると、1875年5月7日に日本とロシアは国境を画定させる条約を締結しました。
この条約を樺太千島交換条約といいます。
樺太千島交換条約によって、
千島列島の択捉島までだったのが、
得撫島より以北占守島まで千島列島全島が日本の領土となりました。
樺太は江戸時代の幕末の日露和親条約で両国雑居と定められていましたが、
樺太千島交換条約によって樺太全島はロシア領となりました。
樺太千島交換条約後、
1904年に日本とロシアの間で日露戦争が起こりました。
日露戦争の講和条約であるポーツマス条約が締結されました。
ポーツマス条約で、樺太の南半分が日本の領土となりました。
戦後の千島列島と樺太
第二次世界大戦が始まると、
日本は東南アジアの占領を目指してソ連(当時)と日ソ中立条約を締結しました。
日本がポツダム宣言を受諾する数日前にソ連は日ソ中立条約を破棄しました。
日ソ中立条約を破棄したソ連は日本の領土だった満州を占領します。
満州だけでなく、樺太や千島列島も占領しました。
戦後、日本は1951年に独立し、
1956年に国際連合に加盟しました。
国連に加盟する際、
ソ連と国交を正常化したことが大きいといわれています。
ソ連との国交正常化の条約を日ソ共同宣言といいます。
この共同宣言において、
北方領土問題は解決されず、
現在も決着がついていません。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は、前半において江戸時代の田沼政権から樺太千島交換条約で
領土が確定するまでの過程を取り上げました。
後半では樺太千島交換条約後の樺太と千島列島について取り上げ、
現時点で北方領土が決着していないことを指摘しました。
日ソ共同宣言でソ連との国交を回復しましたが、
北方領土問題については曖昧な内容で締結したことによって、
現在北方領土問題が解決していないと考えられています。
北方領土のニュースを耳にしていると、
日露和親条約で決まった内容に近いと予想されます。
具体的には、日本が返還を求めている北方領土は
歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島の4島であること、
択捉島と得撫島の間に国境線が引かれている点が挙げられます。
ただし、得撫島より以北について、
帰属問題は確定していません。
また、樺太についてはニュースでほとんど取り上げられることがないため、
ロシアとの領土問題の進捗状況については不明です。
今後、樺太と千島列島について、
日本とロシアとの領土の返還交渉と帰属問題が決着するかどうかに注目したいと思います。
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