日本史の年号を覚えるための語呂合わせで、「イイクニ(1192)作ろう、鎌倉幕府」という有名なものがあります。この語呂合わせを使って、鎌倉幕府の成立、すなわち鎌倉時代が始まったのは1192年である、と覚えた人も多いのではないでしょうか?
しかし、最新の日本史研究では、鎌倉幕府の成立は1185年である、とされています。
源頼朝が征夷大将軍に任命されたのは1192年でしたが、1185年にはすでに頼朝は全国に守護・地頭を置くことを、後白河法皇に認めさせていました。
これは、実質的に頼朝が全国を支配することができる権限を手に入れたということができ、このことを踏まえて鎌倉幕府の成立は1185年であるという説が登場したのです。しかし、頼朝は全国に守護・地頭を設置することの表向きの理由を「義経追討のため、全国に追手をかける」としています。
鎌倉時代の始まりに大活躍した人物
貴族中心の社会であった平安時代が終焉を迎え、鎌倉時代へと移っていくとき、世の中は大きく動いていました。そして、この激動の時代、大活躍した人物がいました。まず、はじめに挙げられるのが、頼朝です。
頼朝は、最初から順風満帆の人生ではなく、父である源義朝が平治の乱で敗れると、伊豆の国へと流されてしまいます。この平治の乱で父義朝とふたりの兄を亡くし、捕らえられた頼朝も処刑されそうになりますが、平清盛の継母にあたる池禅尼の嘆願によって、命拾いします。その後、頼朝は仏教を深く信仰し、伊豆の地で武芸に励みました。この時、北条政子と出会ったのです。
政子は、伊豆の豪族である北条時政の娘でした。時政は、伊豆に流されていた頼朝の監視役だったのです。その監視役の時政が留守をしている間に、娘である政子と頼朝は恋愛関係になってしまい、子ども(長女大姫)を授かり、婚姻関係を結ぶまでになります。
政子の父、時政はこの婚姻には大反対しましたが、政子はどうしてもと譲らなかったそうです。当時、時政はまさか頼朝が幕府を開き、政子とともに鎌倉時代の幕開けの中心人物になるとは思ってもいなかったことでしょう。ちなみに、頼朝は将軍となり幕府を開いた後も、幼い頃、命を助けてくれた池禅尼への恩を忘れずに、池禅尼の子である頼盛を優遇したのでした。
鎌倉時代の始まりを当時の人々はどのように感じていた?
華やかな貴族文化であった平安時代が終わりを迎え、戦乱が続き、武士たちが力を強めていく中で、人々は「この世のものはすべて移ろい、変化していくものだ」という考えを持つようになりました。この考え方を「無常観」といいます。もとは、仏教の教えで使われる言葉でした。
鎌倉時代に鴨長明が執筆した随筆「方丈記」はこの無常観に基づいて書かれています。この時代、幕府が成立する前の戦乱が数多くあっただけでなく、竜巻や火事、地震などの自然災害や飢饉といったことが、度重なって起こったのでした。
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鎌倉時代の始まりに命を散らしたヒーロー!?木曽義仲
鎌倉時代の始まり、といえば、誰もが頼朝の名前を思い浮かべるでしょう。歴史の教科書に載っている、神護寺所蔵の「伝頼朝像」の顔を思い浮かべる人もいるかもしれません。
しかし、鎌倉時代の幕開けに大活躍したにもかかわらず、幕府が成立する前に命を落とした木曽義仲というキャラの濃い武士を忘れてはいけません。
義仲は、母親は遊女だったとされています。現在の埼玉県あたりである武蔵野国で生まれ、京都や鎌倉のしきたりや常識とは無縁の、遠く離れたところで育ちました。「イケメンだったが、無骨者で粗暴な言動が目立つ」と評されたのは、こうした彼の出自も関係しているのかもしれません。
倶利伽羅峠の戦いで平氏に大勝した義仲でしたが、粗暴な言動によって人々の心は離れ、最終的には粟津の戦いで討ち死にしてしまいます。
義仲は、朝廷や民衆からは「無粋な田舎者の武士」というレッテルを貼られてしまいました。しかし、今井四郎をはじめとする近しい人からの信頼は厚く、また、平家物語に登場する女武士・巴御前とのやり取りからも、義仲は武士・政治家としては不器用であり、評判を下げる行動をしてしまいましたが、実は人から好かれる一面を併せ持った男性だったのかもしれない、ということがうかがえるのです。
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