【サムライの祖】滝口武士は手のつけられない凶戦士ってホント?


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日本戦国時代の鎧(武士)

 

サムライと言えば、(さむらい)ジャパンと言うように強いばかりではなく礼節をわきまえた存在として知られています。少なくとも、ただ強いだけの乱暴者をサムライとは言わないでしょう。しかし、それはサムライが誕生してからしばらく経った後の事であり、平安中期に出現した滝口武士は、強いのは強いですが手のつけられない凶戦士だったのです。


サムライを滝口武士と名付けた宇多天皇

幕末70-8_天皇(シルエット)

 

そもそも武士は、天皇の子孫である王臣子孫(おうしんしそん)と地方のまとめ役だった郡司富豪層(ぐんしふごうそう)と、武人輩出氏族(ぶじんはいしゅつしぞく)が混血して誕生したものです。郡司富豪と武人輩出氏族が王臣子孫に娘を提供して男子を誕生させ、その子を貴種として担ぎ一族が団結する事で混血武人が成立します。

藤原京(地図)

 

当初、中央とは縁がなかった地方の武人を京都に呼び寄せたのが宇多天皇でした。

 

寛平(かんぴょう)元年(西暦889年)東国を荒らしまわっていた群盗、物部氏永(もののべうじなが)は、信濃(しなの)上野(こうずけ)甲斐(かい)武蔵(むさし)に多くの野盗を擁して暴れ回り、官軍は10年戦ってもそれを鎮圧できませんでした。

悪党(鎌倉)

 

事態を重く見た宇多天皇は、天皇直轄のスタッフ集団、蔵人所を整備し、そこに地方武人を配置して滝口武士と名付けました。これこそ、日本史で武人が武士と呼称されるようになった最初だそうです。

幕末 魏呉蜀 書物

 

以来、天皇が東国より武人を平安京に呼び寄せて天皇直属の滝口武士として雇用するという形態がテンプレ化していきます。このようにして滝口武士になった武人には、平将門(たいらのまさかど)藤原利仁(ふじわらとしひと)がいますが、広い関東平野で悠々と乗馬に慣れ、狩猟をし弓の達人だった彼らは地方に戻ってから、東国の群盗を朝敵として瞬く間に駆逐していきました。


ミイラ取りがミイラ平将門の乱

平清盛 鎌倉幕府

 

こうして、物部氏永以来の東国の群盗問題を片づけたと思いきや、今度は群盗を鎮圧した平将門が新皇を自称して独立王朝を建国する事を通告したのです。

 

まさにミイラ取りがミイラになった形ですが、同じ頃に瀬戸内海で藤原純友が海賊として暴れ回り大阪湾に侵入するなどしていて、朝廷は東西で反乱を抱えて非常事態に突入する事になります。

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

当時の摂政(せっしょう)藤原忠平(ふじわらただひら)は非常に慌てて、史上初めて天皇の住む大内裏(だいだいり)を囲む宮城十四門に二人ずつ計28人の滝口武士を配置したのです。武士に対しては武士という構図ですが、この措置は、地方武人だった武士が天皇の戦士として認識される契機になりました。

 

幸いに平将門の乱は藤原秀郷(ふじわらひでさと)により鎮圧され、将門の首は平安京に送り込まれます。いずれにせよ、東国の群盗問題は将門に群盗が鎮圧され、さらに将門が殺害された事で、一気に問題にならない所まで鎮静化します。

 

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京都の治安に欠かせなくなる滝口武士

黒山賊

 

同じ時期、瀬戸内海で暴れ回っていた藤原純友(ふじわらのすみとも)ですが、こちらも別の武士により鎮圧され、首だけの姿になり平安京に送られてきました。こうして東西の危機は去ったのですが、相変わらず平安京の周辺は群盗に脅かされていました。理由は本来、盗賊を捕らえる衛府(えいふ)にやる気がない事でした。

燃える本能寺

 

平安京に4つ存在した衛府は、本来の業務である夜間巡回をせず、馬寮(めりょう)も馬を提供しないので、仮に出動しても盗賊が騎乗していればお手上げでした。無力が露呈した衛府は、群盗にも侮られ役所が群盗に襲撃された事さえあります。

 

衛府の無気力に業を煮やした天皇は、宮殿を守る滝口武士を御目付として4人配置します。元々はたるんでいる衛府の役人に喝を入れる目的ですが、その効果は違う意味で予想以上でした。

足軽b-モブ

 

長和6年(1017年)正月、窃盗犯が天皇の御所にまで侵入した時、滝口武士が二人で弓で攻撃して身柄を確保、また正暦4年(993年)12月、権大納言、藤原伊周(ふじわらこれちか)の家を窃盗が襲撃したのを、滝口衆、紀守親(きのもりちか)中原某(なかはらぼう)が弓で攻撃して賊を捕らえました。

 

元々はお目付けの滝口武士ですが、衛府の働きの悪さにたまりかね自らの武勇を発揮したようです。これにより役立たずの衛府より滝口武士を使う方が治安には効果的である事が証明され、武士は平安京の治安に欠かせなくなります。


凶暴だった滝口武士

明智光秀に徹底抗戦する波多野秀治

 

しかし、滝口武士の強さは諸刃の剣でした。生命を顧みない武士の強さは野蛮人の倫理観に根差していて、強いけど短気で、乱闘を好み、気に入らなければ平然と相手を殺してしれっとしている本質的にヤバイ連中なのです。

 

先の藤原伊周の屋敷に押し入った賊を捕らえた紀守親、中原某も、どちらが射た矢が賊を捕らえたかで激しく口論し、長保2年1000年には、滝口武士の惟宗行賢(これむねゆきかた)藤原親光(ふじわらのちかみつ)が乱闘し追放除籍されています。

明智光秀を泣かす赤井直正

 

例えば強き武士だった源満仲は虫を殺すように人を殺すと恐れられ、その子の頼親が殺人の上手と呼ばれたように、強さは容易に反社会的な方向に向いました。元、滝口武士の中には、クビになったり退役したりした途端、賊に身を投じ、逮捕、脱獄、再逮捕を繰り返し、中には天皇の仮御殿に放火するなど、天皇に弓引く者まで出る始末でした。

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