河井継之助といえば、当時の小泉純一郎首相が国会での演説の中で「米百俵の精神」を引用したことにより有名になりました。河井継之助は越後国(新潟県)の長岡藩の家老で、戊辰戦争では奥州を中心とした奥羽越列藩同盟を結成し新政府軍に抵抗しました。
河井継之助は1868年5月から7月までの北越戦争で新政府軍に抵抗します。今回は河井継之助の人物像と戊辰戦争での活躍について取り上げます。後半では小泉純一郎首相が引用した名言「米百俵の精神」について取り上げます。
河井継之助とは?
河井継之助は1828年長岡藩の家老の長男として生まれました。
1852年に河井継之助は江戸で遊学します。
このとき、佐久間象山を訪ね、砲術の教えを受けていたといわれています。
砲術と西洋の武器に関する知見は江戸での遊学のときに得たと考えられます。
後に戊辰戦争の一部で、越後国で起こった北越戦争(長岡城の戦い)での活躍につながります。
北越戦争で河井継之助は新政府軍に負け会津へ向けて逃げる途中、八十里峠を越えたとき傷がひどくて遅れの状態となりました。
このときに次の句を残しています。
「八十里 腰抜け武士の 越す峠」という自嘲の句を詠み、42歳で生涯を閉じました。
北越戦争とは
北越戦争とは戊辰戦争の一部で、1868年5月から7月にかけて起こった新政府軍と越後長岡藩を中心とする勢力との戦いでした。
長岡藩の家老河井継之助は停戦を新政府軍に求めましたが、拒否されたため戦争となりました。
河井継之助はこの戦いで負傷し、会津へ逃げる途中、死亡しました。
北越戦争で使用したガトリング砲とは?
北越戦争で、河井継之助はガトリング砲を使いました。
ガトリング砲とは1861年にアメリカ合衆国のリチャード・ジョーダン・ガトリングによって発明された初期の機関銃です。
後に製品化され、日本にも輸出されました。日本では3門購入したという記録が残されていて、そのうち2門が長岡藩にあります。
複数の銃身を人力またはモーターなどで回転させながら給弾・装填・発射サイクルを繰り返して連続的に発射します。
『その時歴史が動いた』で河井継之助が放送されたとき、ガトリング砲を人力で回転させている姿を見た読者もいると思います。
ガトリング砲以外では、アームストロング砲、エンフィールド銃、スナイドル銃など西洋の商人から最新鋭の武器を購入し、
明治新政府軍への抵抗に備えました。
河井継之助の資金調達
河井継之助はガトリング砲など最新鋭の武器を購入するためにどのようにして資金を調達したのでしょうか。
戊辰戦争の最初の戦いである鳥羽伏見の戦いでの旧幕府軍の敗退と徳川慶喜が江戸に退いたのを知ると、
河合は急いで江戸藩邸を処分し、家宝をすべて売却しました。
売却して得た資金を使って西洋の最新鋭の武器を購入しました。
結果、ガトリング砲については日本にあった3門のうち2門を河井継之助が購入することに成功しました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は河井継之助について取り上げました。
河井継之助の死後に生まれた格言「米百俵の精神」について取り上げます。
長岡藩は明治新政府軍に抵抗したことで石高が大幅に減らされました。
当時藩の大参事だった小林虎三郎は、贈られた米を藩士に分け与えませんでした。
米百俵を売却し、学校設立の費用に充てることを決定しました。
最後に、北越戦争前までの戊辰戦争について、明治新政府軍が西洋の武器を用いて旧幕府軍に優位な立場で戦っていました。
しかし、北越戦争はこれまでの戊辰戦争とは異なり、旧幕府軍が西洋の最新鋭の武器を用いて抵抗したため明治新政府軍は苦戦しました。
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