廃刀令とは1876年に明治政府が出した軍人・警官以外の人の帯刀を禁止する法律です。
江戸時代において、名字帯刀を許されたのは武士と一部の農民だけで特権となっていました。
今回は、武士の特権を奪った廃刀令について、
最初に士族(武士)のリストラについて取り上げます。
後半では、リストラされた武士が不平士族となって反乱を起こすまでの過程を取り上げます。
武士のリストラ―版籍奉還と廃藩置県―
明治政府は戊辰戦争の戦費の調達で借金をしていたため、財政はかなり厳しい状況でした。
財政が厳しい中、明治政府はリストラ策として版籍奉還と廃藩置県を断行します。
『中央集権国家を目指して(1)―版籍奉還とは―』では、
幕藩体制で各藩がバラバラに政治を行っていた地方分権から中央集権化を目指す過程を取り上げました。
同時に、明治政府の財政状況についても取り上げました。
版籍奉還で土地と人民を天皇に返還しますが、
藩主は知藩事として幕藩体制の頃と変わらずに支配を続けました。
知藩事としての給料は明治政府より受け取ることになり、
明治政府の財政状況はさらに厳しくなりました。
『中央集権国家を目指して(2)―廃藩置県とは―』では、
版籍奉還で支払っていた知藩事の給料をカットするために、
廃藩置県を行ったことを取り上げました。
廃藩置県により知藩事という役職はなくなり、給料を支払う必要はなくなりました。
各藩に仕えていた武士は明治時代になると士族という身分に編入されました。
士族の給料は秩禄という名前で明治政府が支払っていましたが、
財政負担となっていたため給料カットの対象となりました。
1876年に士族の給料カットのことを「秩禄処分」といいます。
士族の特権が失われたのは秩禄処分だけではありません。
士族に追い打ちをかけるように廃刀令が出されます。
武士の特権を奪った廃刀令
廃刀令とは1876年に明治政府が出した軍人・警官以外の人の帯刀を禁止する法律です。
最初の廃刀令は1871年に出されていましたが、腰に刀をおびることだけは認められました。
ほとんどの読者は日本史の授業の中で、
1876年に出された廃刀令を覚えたと思いますが、
1871年の廃刀令を徹底した法律と言えます。
士族は江戸時代から続いていた特権である名字帯刀を奪われたため、
不平士族となり、反乱を起こしました。
1876年に熊本県で起こった不平士族の反乱を神風連(敬神党)の乱といいます。
神風連の乱は不平士族が熊本の鎮台を襲いましたが、明治政府の軍隊によって鎮圧されました。
神風連の乱に呼応して、福岡県の旧秋月藩で秋月の乱が起こりましたが、この乱も鎮圧されています。
明治初年の不平士族の反乱というと、
特権を失った士族の自暴自棄と教科書では説明されますが、
現在では不平士族の反乱は、明治政府の一連の欧化政策や
腐敗汚職が横行した政治への義憤、自由民権運動などの政治改革が
武力を伴って展開されたものと認識されるようになっています。
実際に、不平士族の反乱には、負け組士族ばかりではなく、
前原一誠、江藤新平、西郷隆盛のように、
成功を収めた士族も含まれているからです。
また西南戦争敗北を境に、武力による明治政府打倒を諦めて自由民権運動に
転身した元士族も多く、
士族反乱が特権の廃止で前途を失った旧士族の自暴自棄とは断定できなくなっているのです。
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今回は武士の特権を奪った廃刀令について取り上げました。
明治時代に士族はリストラされましたが、ここではリストラされた武士について取り上げます。
明治政府は失業した士族を救済するために士族授産として農業・商業への就業を奨励しました。
しかし、武士は江戸時代から威張る習慣がついていたため、
商売で頭を下げる習慣がなかったことから商業に従事した士族の多くは失敗しました。
このような武士による商業のことを士族の商法と呼んでいます。
商業以外では、明治政府は北海道への移住を奨励しました。
失業した士族の中には屯田兵として北海道に移住した者がいます。
屯田兵は北海道の警備だけでなく、農地の開墾作業も行いました。
失業した士族が明治初期の北海道開発に貢献したといえるのかもしれません。
最後に、下級武士から実業家に転身し、成功した人物として山羽寅楠について紹介します。
山羽は紀州藩の下級武士でしたが、機械いじりが得意だったと言われています。
その経験を生かして、
静岡県の浜松市に日本楽器製造株式会社(現在のヤマハ株式会社)を創業しました。
商業を始めた士族で現在も有名企業として残っている会社にも注目したいと思います。
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