今回は土佐藩の岡田以蔵について取り上げます。岡田以蔵は2010年の大河ドラマ『龍馬伝』など坂本龍馬を題材にしたドラマで、人斬り以蔵として有名になりました。この記事では岡田以蔵が土佐勤王党に加盟してから人斬り以蔵になるまでの経緯を中心に取り上げます。
岡田以蔵とはどんな人?
岡田以蔵は土佐藩に生まれました。岡田以蔵は武市瑞山に師事し、土佐藩で剣術を学びました。その後、武市瑞山に従い、江戸で剣術を学びました。土佐に帰国しましたが、1860年に中国・九州地方で剣術の修行をしました。師匠の武市瑞山も以蔵の修行に随行していましたが、以蔵と瑞山は豊後国で分かれ、以蔵は豊後に留まりました。その間に武市瑞山が結成した尊王攘夷派の土佐勤王党に加盟しました。以蔵の弟も土佐勤王党に加盟しています。
1862年、岡田以蔵は参勤交代の衛士に抜擢されました。師匠の武市瑞山とともに参勤交代の列に加わり、京に上りました。
人斬り以蔵へ
岡田以蔵は土佐勤王党に加わった頃、土佐藩は幕府寄りで公武合体派でした。土佐勤王党は尊王攘夷派で対立関係にありました。岡田以蔵は土佐勤王党の同士らと共に幕府寄りの土佐藩士や土佐藩以外の役人の暗殺に加わります。暗殺された土佐藩士には山内容堂の側近だった吉田東洋がいます。この頃から人斬り以蔵という呼び名が定着したといわれています。
1863年に岡田以蔵は脱藩しました。その年の八月十八日の政変で尊王攘夷派が不利な立場に追いやられると、土佐勤王党も劣勢となりました。以蔵は脱藩すると酒に溺れ、借金を繰り返すようになりました。1864年に強盗の罪で逮捕され、京を追放された後、土佐に護送されました。
土佐勤王党は吉田東洋暗殺に関して武市瑞山らが逮捕されていました。以蔵は拷問に屈して関与した同士の名前を自白しました。以蔵の自白によって逮捕者が続出する事態になりました。1865年、以蔵は打ち首・獄門となりました。
岡田以蔵の刀
ここでは岡田以蔵の刀について取り上げます。岡田以蔵の愛刀は肥前忠広です。この刀は坂本龍馬が以蔵に貸したものあるいは坂本龍馬の兄権平が以蔵に贈ったといわれています。
以蔵の愛刀を製造した刀工・肥前忠広について、慶長の頃から幕末まで8代続いた名工と言われる家柄です。以蔵の愛刀といわれている肥前忠広は、坂本龍馬の兄が以蔵に贈ったことから初代忠広の作だと考えられます。以蔵が実際に刀を使った証拠として刃先が破損しています。実際に破損した刀は博物館で展示されていたことはありましたが、現在は場所が分からなくなっています。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は土佐藩藩士の岡田以蔵について、土佐勤王党に加わってから人斬り以蔵になるまでの経緯を取り上げました。暗殺に関わるようになったきっかけは土佐勤王党に参加したことであることが分かりました。ここでは、岡田以蔵の性格について紹介します。岡田以蔵は純粋で頑固な性格だったといわれています。一方で、武芸は秀でているものの臆病な性格で、女でも耐えられる拷問に耐えることができず、泣きわめき、武市瑞山らの関与を自白したといわれています。
また、岡田以蔵について学問に関する記録がないことから、学問に関する成績は悪かったのかもしれません。このような性格が災いとなって、土佐勤王党で人斬りとして使われたのかもしれません。
最後に、岡田以蔵は坂本龍馬を題材にしたドラマで主役ほどではありませんが、どこかのシーンで登場する人物であることや人を斬っているシーンでよく登場します。幕末の歴史ファンの間では知名度は高いと考えられますが、岡田以蔵の墓は武市瑞山のとは異なり、人目の付かない場所にあります。人斬りであるとともに仲間を裏切ったということが影響として出ているのかもしれません。
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