西園寺公望といえば、桂太郎と交互に総理大臣を務めた桂園時代で有名です。内閣総理大臣だけでなく、立命館大学など大学の創立に関わったことでも有名です。この記事では、西園寺公望について、江戸時代、内閣総理大臣時代、教育者としての西園寺公望の3つに分けて紹介します。
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江戸時代の西園寺公望
西園寺公望は1849年に生まれました。大河ドラマではほとんど登場しませんが、戊辰戦争では官軍の方面軍総督を務めました。
戊辰戦争が終わると、フランスに留学します。ソルボンヌ大学で法学を専攻しました。フランスに留学していたとき、東洋のルソーと呼ばれた中江兆民と交流があり、影響を受けたと考えられます。
内閣総理大臣時代の西園寺公望
西園寺公望はフランス留学から帰国すると、第二次伊藤博文内閣で外務大臣、第三次伊藤内閣では文部大臣に就任しました。
伊藤博文が立ち上げた立憲政友会の総裁に就任し、1906年に内閣総理大臣になりました。この西園寺公望内閣は立憲政友会を中心とする内閣で、日本初の政党内閣でした。その後、陸軍出身の桂太郎と内閣を交互に組織したことから桂園時代と呼ばれています。
第二次西園寺内閣において、二個師団増設問題が起こりました。当時、軍部大臣現役武官制がとられていて、軍部大臣が辞任すると現役の武官を任命しなければなりませんでした。西園寺公望内閣と桂太郎ら軍部が対立したことにより陸軍大臣上原勇作が辞任すると、後継の現役武官を見つけることができなかったため西園寺公望内閣は崩壊しました。
この出来事は1912年、桂太郎の組閣に対して、尾崎行雄や犬養毅らが閥族打破と憲政擁護を訴えた第一次護憲運動につながりました。第一次護憲運動に対して、桂太郎は立憲同志会の結党で対抗しましたが、少数派に終わったため1913年にわずか53日で退陣しました。第三次桂太郎内閣が退陣した出来事を大正政変といいます。
教育者としての西園寺公望
西園寺公望は教育にも尽力しました。1869年に京都御所内の私邸に私塾の立命館を創設しました。私塾立命館には地方出身の若者が集まるようになりました。1870年に京都府の命令で立命館は閉鎖されましたが、西園寺公望の側近の中川小十郎が1900年に創設した京都法政学校が立命館の名称を引き継ぐ形で発展しました。西園寺公望のゆかりの品々は立命館大学内で展示されています。
1880年、フランスに留学していたとき、仲間だった岸本辰雄らとともに明治法律学校を創設しました。明治法律学校は現在の明治大学となっています。立命館大学と明治大学以外では、京都帝国大学(現在の京都大学)の創立に尽力しました。女子の教育にも力を入れ、日本女子大学校の創立に関わりました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は西園寺公望について取り上げました。西園寺公望は桂太郎と交互に総理大臣を務めた桂園時代で有名ですが、第三次桂太郎内閣が大正政変で崩壊すると、内閣総理大臣は元老による推薦ではなく、政党の総裁が首相を務める政党内閣が続きました。この本格的な政党内閣は五・一五事件で暗殺された犬養毅まで続きました。西園寺公望は最後の元老といえます。
最後に西園寺公望の評価について取り上げたいと思います。西園寺公望はフランスに留学していたときフランスのリベラルな思想に関する知見を得ました。フランスのリベラルな思想があったことから、教育に力を入れたという点で評価できるかもしれません。
西園寺公望が内閣総理大臣に就任した頃、片山潜がアメリカから労働運動を持ち込んだことや社会主義運動が活発になりました。西園寺公望はリベラルな思想があったことから治安警察法などで弾圧することなく容認していたといわれています。第一次西園寺内閣は取り締まりが不徹底という理由で辞任に追い込まれました。戦前の社会主義運動にも注目したいと思います。
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