おそらく80パーセントの三国志ファンは知らないと思われる裴松之。彼は偉大な歴史家で『三国志』を多方面から研究した人物です。
彼の偉業がなければ『三国志演義』は産声を上げなかったかもしません。ここでは、裴松之と彼が注釈をつけた裴注三国志にフォーカスしていきます。
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三国志は2つ存在した!
歴史書『三国志』。これは西晋の時代の西暦280~290年に書かれました。
作者は陳寿という歴史家でした。しかし、彼が書いた三国志は疑わしい記述を全て省いた簡素でモノ足りない内容でした。
それからおよそ100年、裴松之がこの世に生を受けます。南朝宋の文帝は学問好きな皇帝で陳寿の三国志のファンでしたが、そのサッパリし過ぎた
簡素な内容を惜しみ裴松之に対して、三国志に注釈をつけて増補するように命じました。
そこで、裴松之は陳寿が拾わなかった史料を再検討して極力拾い注釈をつけた上で採用したのです。
つまり、三国志には第一弾の陳寿の三国志と裴松之の増補版とも言うべき三国志があり、歴史書として名高い三国志は100年に渡って、シリーズで刊行されたのです。
裴松之は傘寿・80歳まで生きた歴史家
祖父は「光禄大夫」、父は「員外郎」という公務員の役職に就いていました。裴松之の家は官僚一家だったのです。現代の東大エリートの家に生まれたようなもの。将来は約束されていました。
そんな高級官僚が身近にいる裴松之、本が大好きで8歳にして『論語』や『詩経』をマスター。20歳で「殿中将軍」の地位を得ます。そんな折、親戚のおじさんである庾楷が桓玄にやられ、兵が敗走します。おじさんは夏口(現在の湖北省武漢)で桓玄に白旗を上げました。
この事件を聞いた裴松之は新野太守(県知事のようなもの)に命じられます。新野(現在の河南省南陽市)は夏口のすぐ北の領土。桓玄の追手が来てもおかしくありません。頭の切れる裴松之は新野の地へ赴任することを渋ります。軍靴の高鳴りとともに降参したおじさんは桓玄の手に落ちます。ところが裴松之はまだ新野には行っていなかったので、桓玄の魔の手から逃れることができたのです。
これも戦略の一つでしょう。桓玄を倒そうと早々に着任していたら、裴松之の命も危なかったはずです。
裴松之は劉裕グループの一人
やがて、裴松之は公務員として数々の職を経験、軍事機密を扱う「尚書」で働きます。
西暦416年、太尉・劉裕とともに北伐に同行。劉裕はのちに宋の皇帝となる人物です。このとき、劉裕は裴松之を称賛し、素晴らしい才能を持つ人物であると評しています。戦を重ね、晋軍が洛陽を陥落させる頃には、裴松之は劉裕グループの中心人物にまで出世するのです。
晋が成立してからは零陵内史、国子博士といった職を経て、名声を高めていきます。65歳の時、太中大夫に就任。80歳になると病にかかり他界します。さすがの奇才もウイルスには勝てませんでした。
普遍的になった裴注三国志
歴史書として名高い陳寿の三国志。裴松之は多くの文献を取り入れ、信用性がたとえ低くても三国志に関する史料として取り上げ、陳寿の三国志を盛り沢山の注釈をつけたユニークな一冊に仕上げました。
現在でも購入可能で「天津古籍出版社」から126元で販売されています。845ページに及ぶブリタニカ国際大百科事典並みの分量で、2019年現在のレートで2,000円ほどです。中国は本や食べ物、交通機関がリーズナブルなので、留学にはぴったりです。もちろん本は中国語で書かれていますが、現代の中国語と異なり、まるで高校の漢文に出てきたような漢字や文法が使われています。中国を旅行した際に一冊購入してみるのもいいでしょう。
実は学校で習う『魏志倭人伝』もこの三国志の中の一部。興味のある人は魏書の東夷、倭人の項目を調べてみましょう。
三国志ライター上海くじらの独り言
裴松之は官僚として三国時代の歴史を研究していました。そのため裴注三国志にファンタジー要素はありませんが、信頼度の有無に関わらず注釈を入れて、歴史書として編纂したことに価値があります。
例えるなら、新聞の記事と週刊誌の記事をごちゃ混ぜにして一冊の本にしたようなものです。文部科学省の役人がこんな本を作ったら大臣に怒られそうなものです。しかし、裴松之は歴史である以上、推測の域を出ないことから、多くの史料を集めることに重きを置いたのです。
裴松之が拾ったゴシップ史料満載の「増補版」正史三国志は、後世の三国志演義に無数のエピソードを与える事になります。
こうして絶大な支持を得た三国志演義は、マンガ、ゲーム、ライトノベルへと拡散していき時代を超えて
三国志のストーリーが連綿と語り継がれる事になったのです。
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