孟達が関羽の救援要請を拒否して劉封と同様に劉備に疎まれたのはよく知られています。その後、孟達は魏に下るのですが、それは夜逃げのようにコソコソしたものではありませんでした。孟達は劉備に対して書状を出して「自分には罪が山積していて、雲霞の如く集った英傑の中にあって身の置き所がありません。なので自分で罪人認定し、房陵・上庸を手土産魏に下りたいと思います」みたいな事を書いて堂々と劉備の部下を辞め、四千家ともされる膨大な部曲民を率いて魏に下りました。
辞めるならコソコソ辞めればリスクもないのですが、どうも孟達という人は計略が多い人で後々、また蜀からオファーが来やすいように真面目な辞め方にこだわりました。現在でも、ちゃんと1カ月前に仕事を辞める事を意志表示してちゃんと引き継ぎして辞めると心証がよくなって、再度面接を受ける時にも以前辞めた事がマイナスにならない利点がありますが、それと似たような効果を狙ったのかも知れません。
この経緯から孟達は、蜀から勝手に逃亡した人ではなく正式に蜀から離れた人扱いになり、後に諸葛亮がヘッドハンティングを仕掛けやすくなったわけです。
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