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戦国時代のお正月はどんな過ごし方をしていたの?


 

日本史01a 寅年 織田信秀 オンライン雑談海洋

 

 

新年あけましておめでとうございます。今年度もはじめての三国志を宜しくお願い致します。さて、正月といえば正月行事がありますが戦国時代の正月にはどんな行事があったのでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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正月行事は味方の結束を強める安全保障だった

軍議(日本史)モブb

 

 

毎日、合戦に明け暮れていたかに見える戦国時代ですが、戦がない時は盛大に正月を祝いました。その理由は正月行事が主君と家臣の連携を強めると同時に周辺勢力との交流の場だったからです。しっかり正月行事をおこなう事は安全保障にも繋がっていたのです。

 

 

お正月は三献の儀から始まる

名古屋城

 

そんな戦国の正月は三献の儀から始まります。日の出と共に家臣たちは主君の城に向かい、主君が注いでくれる酒を三回に分けて頂戴するのです。これが済むと正月の宴会となり雑煮や御馳走を振る舞われ、連歌や茶、能のような芸能を楽しみます。

 

伊達政宗

 

 

戦国大名伊達政宗は非常な美食家で、雑煮には、アワビ、ナマコ、ニシン、ゴボウ、豆腐、黒豆、角餅が入っていたそうで、おせち料理には鯨肉や白鳥など豪勢な材料が入っていたそうです。

 

 

おせち料理に残る武士の名残

宴会好きな豊臣秀吉

 

 

お正月と言えばおせち料理ですが、おせちの具材には戦国時代に因む縁起物が入っています。それが栗きんとんと昆布巻きでした。まず栗きんとんは、黄色が黄金を連想させ富の象徴とされたと共に、栗は勝栗と言われ合戦に勝利するので縁起がよいとされました。もうひとつの昆布巻きは、よろこんぶの語呂合わせです。武士は常に勝つか負けるかの不安定な状況にあったので微笑ましいダジャレにも飛びついていたのです。

 

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戦国時代の遊びは?

信長の前で蹴鞠を披露する今川氏真

 

 

戦国時代の正月の遊びには、双六、羽子板、独楽回し、打ち毬等がありました。三好長慶の居城だった勝瑞城舘遺跡からは、これら正月遊具が多く出土しています。現在ではやらなくなった遊戯として打ち毬がありますが、これは現在のクリケットやポロの原型で、平安時代の渤海使から伝来したとされ、複数人でホッケースティックのような棒を握り、木製の毬を二本のポールの間に打ち込む競技です。元は宮中行事であり、鎌倉時代以降は廃れていましたが、騎乗する競技なので鍛錬になるとして、戦国時代には正月行事と同時に軍事訓練として復活したようです。

 

 

大人が熱中したギャンブル双六

羽柴秀吉(足軽時代)

 

 

現在では子供の遊びの印象が強い双六は戦国時代には大人がモノを賭けてやるギャンブルでした。戦国時代は刹那的な風潮もありギャンブルが盛んであり、熱中した兵士が鎧兜や刀を賭けてすってんてんになる事も多かったので、双六を禁止する戦国大名も多かったのですが、正月だけは大目に見られたそうです。

 

 

戦国時代のお年玉

資金が豊富な織田信長

 

 

お年玉の習慣は戦国時代頃から始まったそうです。元々お年玉は大人が子供に金銭をあげるのではなく、家主が正月に神様に捧げた依り代を家族に配るものでした。神様は新年に山から下りてきて依り代に宿り人間に新しい命を与えるとされていて、家主はこの神様の魂が宿った依り代を家族に配る事で、神様の命を受け取り寿命が延びると考えられていたのです。つまり「お年玉」は「お年魂」だったのです。

 

徳川家康は織田信長に脅されて息子の松平信康に切腹を命じる

 

このお年玉の習慣は戦国時代には、主君から家臣に与える贈物に形を変えていき、現在に繋がっているのです。

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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