2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」です。主人公徳川家康は最初、今川義元の人質扱いになっていますが、戦国時代初心者には、そもそも、どうして家康が義元の人質なのか?よく分からない方もいるでしょう。そこで今回は家康が義元の人質にならざるを得なかった経緯を分かりやすく解説します。
この記事の目次
家康のルーツ、松平信光
徳川家康のルーツである松平氏で文献上最初に名前が確認できるのは松平信光です。信光は三河の土豪で、応仁の乱の少し前に室町幕府の政所執事、伊勢貞親の被官になります。1465年、信光は三河守細川成之の配下として三河国額田郡で起きた一揆を武力鎮圧。その後、幕府から褒美として一揆勢の拠点があった深溝(ふこうず)を与えられます。
深溝を拠点にして信光の躍進が始まります。1467年に応仁の乱が起きると信光は東軍に味方して、西軍の畠山加賀守が守る三河安祥城を陥落させます。その後信光は岡崎城主、西郷頼嗣に五男の光重を婿養子として入れて勢力下に組み込み、東三河で勢力を持っていた戸田宗光にも娘を嫁がせて、松平氏の勢力を築いていきます。
岩津松平が没落し安祥松平が宗家に
松平信光は89歳まで長生きした説もあり、48名の子に恵まれました。信光はこれらの子供を東三河の各地に配置し後に十八松平と呼ばれる松平氏の地盤を固めました。当初、松平氏の宗家は岩津松平氏でしたが、隣国駿河の今川氏親が松平氏の勢力拡大に脅威を感じ、腹心の伊勢宗瑞に軍を与え、1508年に岩津松平氏の本拠地岩津城を攻撃します。
小田原北条氏の祖である伊勢宗瑞の攻撃は激しいものでしたが、岩津松平も歴戦の古強者であり一歩も引かず、また、同族の安祥松平氏の松平長親の救援もあって、今川軍を苦しめますが、善戦及ばず岩津城は陥落しました。岩津城陥落後、岩津松平は没落し、安祥松平が宗家となります。松平長親が隠居すると、家督は息子の信忠が継ぎますが、信忠は松平一族をまとめられず、隠居した長親の命令で強制隠居、長親は孫の松平清康13歳に家督を継がせました。
松平清康が三河統一寸前までいくが家臣に殺される
清康はまれに見る有能な武将で、瞬く間に安祥松平氏に反発する松平勢力を武力で平定。拠点を三河安祥城から岡崎城に移すと、そこに家臣や一族、町人を集めて城下町を形成し松平氏を戦国大名として成長させ、各地の反対勢力を討ち果たし三河統一寸前まで行きます。
しかし、その頃、尾張の織田信秀が美濃の斎藤道三と戦い苦戦している事を知った清康は、急遽尾張に侵攻を開始、その途中、逆恨みした家臣に斬りつけられ死んでしまいます。ここで清康が死んだ事が家康が今川家の人質になる大きな原因になりました。
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松平広忠が大叔父に追われ今川氏を頼る
清康には10歳になる息子の広忠がいましたがまだ子供なので、松平氏の実権は大叔父で清康と仲が悪かった桜井松平氏の松平信定が握ります。信定は広忠の本拠地である岡崎城まで奪い、命の危険を感じた広忠は家臣の手引きで伊勢に逃げていきます。伊勢で元服した広忠は、駿河の今川義元を頼って駿府へ向かい、松平信定の死後に義元の後ろ盾を得て、岡崎城に帰還しました。
織田家の攻撃に苦しみ今川家に家康を人質に出す
こうして形の上では三河の主になった広忠ですが、当時、尾張の織田信秀が逆襲に転じていて、三河安祥城を奪われるなど松平家は大苦戦していました。広忠は義元からさらなる援軍を得る為に、嫡男の家康を駿府に送り、今川家への忠誠を誓ったのです。義元は広忠に援軍を出し、そのお陰で安祥城を織田家から取り戻す事が出来ましたが、1549年、広忠は23歳の若さで急死します。
まとめ
当時の家康は8歳になったばかりで、とても城主は務まらないので、引き続き駿府に留め置かれ、岡崎城は今川家から代官が送られて間接統治する事になったのです。このように松平氏は清康の死後に勢力が急速に衰え、当主の広忠も10歳の少年だったので、今川氏を頼って織田に対抗する事になり、その忠誠の担保として家康が幼くして義元の人質になったのです。
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