もし劉禅が降伏拒否・徹底抗戦を指示していたら蜀漢の歴史はどうなっていたの?

2023年1月7日


 

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悪役の曹操、正義の味方の劉備

 

魏呉蜀の三か国による戦いが、三国志。特に文学作品として有名な『三国志演義』では、そのうちのひとつ「蜀」を興した劉備が、主人公格として扱われます。

 

三国志演義_書類

 

現代日本の多くの三国志作品も、『三国志演義』の影響を受けています。初心者ファンはとうぜん蜀の視点になり、蜀が最後に勝つものと思いがちです。

 

 

降伏する劉禅

 

それゆえ、鄧艾・鍾会という二将軍に率いられた魏軍が蜀に攻め込んできた際、劉備の息子である劉禅があっけなく降伏し、蜀が滅亡する展開には驚くかもしれません。そんな印象のせいでしょうか。

 

劉禅

 

劉禅には、「普段は何も決断しなかった暗君のくせに、よりによってこの時だけ、積極的に降伏命令を発した」という非難の声が上がりがちです。蜀軍には士気もあったし、兵力も残っていた。徹底抗戦を命令すべきであったと。この劉禅への非難は、どこまで妥当なのでしょう?

 

今回は、「史実ではあっけなく降伏した劉禅が、もし徹底抗戦を命令していたらどうなったか?」を考えてみたいと思います!

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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鄧艾・鍾会の「蜀攻め」は決して順調ではなかった!

正史三国志_書類

 

まずは、史実の確認から。

 

 

祁山、街亭

 

蜀に攻め込んできた魏軍は兵力では優位でしたが、蜀の地形の険しさに苦慮し、なかなか快勝を得られずにおりました。その情勢下で、鄧艾が派遣した迂回軍が綿竹という拠点の奇襲突破に成功し、蜀の首都対する進路を獲得します。

 

鄧艾(トウ艾)と一緒に木を切り蜀に前進する鄧忠(トウ忠)

 

その報を受けた劉禅が降伏を決断する。これが史実の流れです。確かに、重要拠点の一角が崩れたことで蜀は危険な状態となりました。ですがエース級である姜維の部隊はまだ健在。その他の蜀軍も各拠点の防衛についている状態でした。まだ各方面に戦力はあったのです。

 

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トウ艾

 

 

 



劉禅が積極的に出した「降伏命令」は熟慮の痕が!

費禕の没後、北伐の準備に取り掛かる姜維

 

もっとも、開戦前から蜀の内部事情は芳しくはありませんでした。そもそも諸葛亮を失って以降、大きな軍事的成功もなく。姜維が繰り返していた魏軍との対決も国力を疲弊させるばかりと、批判の声も高まっていたのです。

 

北伐したくてたまらない姜維

 

なるほど姜維の信念の強さは驚嘆すべきです。しかし国全体で見た時には、経済事情を無視して戦争を繰り返す姜維は内政派から見れば迷惑だったでしょう。こういう国では、最高指揮官の判断が国運を左右します。そして史実では劉禅は軍事強硬でなく、早期降伏を選んだわけです。

 

これを「情けない」と見るのは後世から見てのことであって、この状況下で降伏を判断したのは、かなりのプレッシャーがかかることだったでしょう。

 

鄧禹と兵士

 

そもそも劉禅が判断した時点では、降伏して生き残る保証があったわけでもない。古代中国には、抵抗をやめて降伏したものの、君主が殺されたり、街を焼き払われたり、兵士や民が何万単位で生き埋めにされたり、そんな事例は多々あります。

 

兵士と戦術

 

「降伏しても皆殺しかもしれない」と反対意見も十分ある中で、劉禅は降伏に賭けた。これは、劉禅としては、土壇場で君主としての責任をしっかり果たした、とも言える筈です。

 

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徹底抗戦はなるほど可能だったがその末路は?

ブチ切れる劉禅

 

ここまで見たところで、それではいよいよ、劉禅が徹底抗戦の判断をしたらどうなっていたかを考えましょう。先述した通り、拠点綿竹が突破されても、蜀軍には兵力がじゅうぶん残っていました。

 

三国志 蜀の桟道(街亭)

 

それらを益州奥地へ呼び戻し、複数の防衛線を築けば、誰かが突破されてもその次にはまた防衛部隊が現れる、綿密な持久戦の陣をとれたでしょう。持久戦で魏軍を疲れさせれば、兵糧の問題や、鄧艾・鍾会の不仲という問題が表面化し、撤退に追い込めた可能性もあった筈!ただし、そうしたところで、懸念があります。

 

前人未到のルートで蜀にたどり着いた鄧艾(トウ艾)

 

このときの鄧艾・鍾会の遠征を凌いだとしても、五年後には再遠征が。それを凌いでも、またその五年後には、魏軍の遠征が計画されたのではないでしょうか?

 

国力差が明白な以上、蜀は毎回、防戦いっぽうとなり、滅亡は逃れても、逆転要素のない戦火の連続になったことでしょう。そのことに、果たして意味はあるのか?

 

剣閣で守りを固める姜維

 

もちろん、姜維のような、古参の将軍は、劉備と諸葛亮のそもそもの理念を説き「滅亡しないことに意味がある」と主張するでしょう。ですがそれも世代交代が進めばどんどん共感を得にくくなった筈です。

 

兵士 朝まで三国志

 

そして、徹底抗戦が何十年も続いた場合、いざ蜀が滅ぼされた時の魏軍が、残酷な占領軍として、虐殺の手を伸ばすという悲惨な展開もあり得たのでは?

 

劉禅に気に入られる黄皓

 

そう考えると、意外や意外、ほとんど生涯で初めて積極性を見せた劉禅の降伏は、「それより以前なら舐められていた」「それより後なら恨みを買っていた」という、最適なタイミングでの良手だったのかもしれません。

 

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まとめ:すべては蜀漢の「大義名分」をどう解釈するか次第!?

君たちはどう生きるか?劉禅

 

ただし、このように「劉禅の降伏は正しかった」と考えた私も、「もっと蜀に抗戦してほしかった」と思うファンの方に譲りたい点がひとつあります。一般に、ある国が降伏する場合、それが適切だったかどうかは、「戦後処理でうまく生き延びられたか」というリアリスティックな点の他にもうひとつ、「天下に申し訳が立つか」という理念の点もあります。

 

不満を持っている志士(武士・兵士・村人)

 

たとえ本人たちが助かっても、「あんな悪辣な侵略者に簡単に降伏して生き残るなんて情けない」と、諸外国の軽蔑を買う結果になった例なども、歴史には多々あります。この点で蜀の降伏はどう見るべきか?

 

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三国志ライターYASHIROの独り言

三国志ライター YASHIRO

 

実は先ほど、「姜維がそもそもの理念を説いていたら」と書きましたが、ここがポイントです。

 

諸葛亮孔明の天下三分の計に感化される劉備

 

すなわち、「もし、劉備と諸葛亮の『漢王室の復興』という理念が、じゅうぶんに蜀の民や将軍にも世代を超えて浸透していれば、そしてそれをしっかりとアピールした劉禅が徹底抗戦をしていれば」、たとえ悲惨な負け方をしても「蜀漢」の歴史上での美名は更に高まっていたでしょう。

 

司馬昭の質問に回答する劉禅

 

ただしこれは、漢王室の復興というそもそもの大義名分がどこまで人心を掴めるかという一点に関わります。現実的に考えて、「漢王室の復興のためになら、国を焼土として死んでもいいか」という究極の問い!これにどう答えるかは三国志ファンの間でも意見が大きく分かれる、面白い論点かもしれません

 

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YASHIRO

とにかく小説を読むのが好き。吉川英治の三国志と、司馬遼太郎の戦国・幕末明治ものと、シュテファン・ツヴァイクの作品を読み耽っているうちに、青春を終えておりました。史実とフィクションのバランスが取れた歴史小説が一番の好みです。 好きな歴史人物: タレーラン(ナポレオンの外務大臣) 何か一言: 中国史だけでなく、広く世界史一般が好きなので、大きな世界史の流れの中での三国時代の魅力をわかりやすく、伝えていきたいと思います

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