徳川家康は大砲に着目した戦国大名として知られていますが、その大きな目的は難攻不落で知られた大坂城を陥落させる為でした。大きな堀と城壁に囲まれた大阪城を落とすには、大砲の威力で城壁を打ち崩し城内の人員を殺傷し、その不気味な破壊音で戦意を落とすのが最良と考えたのです。
しかし、当時の日本においては、鉄砲の水準は諸外国を越えていたものの、大砲は未発達で家康もイギリスからカルバリン砲を購入して大阪城の頑丈な石壁を破壊して城内の人を殺傷し、淀殿の戦争継続の意志を削いで、大坂冬の陣を和睦に持ち込んだと言われています。まさに、カルバリン砲は家康に天下を獲らせた大砲でしたが、実は家康はさらにスゴイ国産の大砲を製造させていた事をご存知ですか?
この記事の目次
カルバリン砲とは?
カルバリン砲とは、15世紀から17世紀にかけて、欧州で使用された大砲で戦国時代のカルバリン砲は長さ335㎝で重さが2トンもあります。18ポンド(8.16㎏)の砲弾を飛ばす事が出来、陸戦で騎兵や歩兵に被害を与えたほか、有効射程は500mあり、90m先の厚さ15㎝の板を貫通出来ました。
また、カルバリン砲は世界史も変えた大砲であり、カノン砲よりは威力が劣るものの射程距離が2キロと長い事から、エリザベス1世はイギリス艦隊に正式採用。西暦1588年のアルマダの海戦で、スペインの無敵艦隊を打ち破って全滅させ、イギリスが7つの海の支配者になるのに大きく貢献しました。
エリザベスは軍艦に搭載するカルバリン砲を製造すべく、ウィールドに大砲工場を建設させ、水車動力を使い1年間に3300門のカルバリン砲を製造させたそうで、徳川家康はこのカルバリン砲の評判を聞きつけイギリス商人から、カルバリン砲を4門とセーカー砲一門をあわせて1400両で購入しました。
実際に、当時の状況を再現してみた研究結果では、大坂城から500m離れた備前島から発射されたカルバリン砲の砲弾は、厚さ40㎝のコンクリートの壁を貫通する破壊力を保有し、大坂方をパニックに陥れたであろう事が分かっています。ドケチな家康が大金をはたいて買った価値があり、カルバリン砲は家康の天下統一に大きく貢献したのです。
家康の大砲 芝辻砲
ところで、カルバリン砲を購入する一方で、徳川家康は国産の大砲も製造させていました。その中の一つが、堺の銃工、芝辻理右衛門助延に命じて慶長16年に造らせた芝辻砲です。芝辻砲は、全長3.13m、口径9.3㎝、重量1.7トンで5㎏の鉛砲丸を発射できたとされ大坂城落城の切り札とされていました。家康が特注で造らせた紛れもない「家康の大砲」です。
芝辻砲は今でも靖国神社の遊就館にあり、一見すると鋳造砲に見えますが、昭和58年に日本鉄鋼協会の非破壊検査で鉄砲同様の鍛造と断定されました。その製造法は、12.5ミリの鉄板を同心円状に8枚重ねて接合部分を鍛鉄したもので、非常に強度が高く重量があり、イギリスから輸入したカルバリン砲に比較しても頑丈で、同時に非常に高価な大砲だった事が分かっています。
コスパが悪すぎる芝辻砲
家康の大砲芝辻砲は、一門1000両、それに比較してイギリスから輸入したカルバリン砲は一門300両と芝辻砲は、3倍以上のコストが掛かりました。
それでも芝辻砲が、カルバリン砲を上回る性能があればいいのですが、実はそうでもありませんでした。カルバリン砲は口径12.7㎝、砲身3.5mで18ポンド(8kg)の砲弾を飛ばす事が可能で、5kgの砲弾しか飛ばせない芝辻砲の性能を大きく上回ったのです。
ここで疑問が湧いてきませんか?どうして性能が優れているイギリス製のカルバリン砲を輸入できる家康がわざわざ高価で手間のかかる芝辻砲を造らせたのでしょうか。
それも、ケチぶりでは戦国武将随一の経済観念に聡い家康が、国産というだけで高価で性能もカルバリン砲に劣る芝辻砲を製造させた理由はなんでしょうか?ここに、家康が芝辻砲に込めた本当の狙いが見えてくるのです。
芝辻砲は淀殿と秀頼爆殺を狙うスナイプ砲だった
芝辻砲は鉛弾でも5㎏の砲弾しか飛ばせない設計でした。しかし、口径の割に極めて頑丈で砲身が長い設計になっています。どうして、そんなあべこべな仕様なのか?理由は一つしかありません。家康は射程距離が長く、しかも命中精度の高い大砲の極限を求めたのです。
輸入したカルバリン砲の射程距離は2㎞ですが、狙い撃ちが可能なのは500mが限界でした。それに比較し家康の芝辻砲は鍛造砲で多くの火薬を爆発させられるので、狙い撃ちできる距離が600mと100m長いのです。
芝辻砲の狙撃可能距離600mは決定的な意味を有していました。当時、家康の東軍は淀川の備前島という中洲から百門の砲で大坂城を砲撃していたのですが、この中洲から天守閣までは500mであり、カルバリン砲ではギリギリ狙って届くかどうかでした。それに対し芝辻砲は600mの狙撃可能距離があり天守閣に届きます。
つまり、芝辻砲は天守閣を直接狙撃できるスナイプ大砲であり、家康は芝辻砲で大坂天守閣を狙い、あわよくば淀殿と秀頼の爆殺を狙っていました。
実際に東軍の砲弾が、天守閣ではありませんが、大坂城の本丸に命中し、淀殿の侍女8名が即死した事例があり、これに恐れを為した淀殿は家康の和睦の提案に同意しています。もっとも、本丸に命中したのが芝辻砲の砲弾であるという証拠はありませんが、家康がピンポイント爆殺を狙っていた可能性は高いと思います。
参考PDF:金属を通して歴史を観る 23.大砲の歴史と鋳鉄/新井宏/日本金属工業(株)顧問/BOUNDARY 2000.11
世界一だった火縄銃の命中精度
戦国時代の日本の火縄銃の精度は、当時の世界水準を大きく上回っていました。例えば、文禄・慶長の役の後で李氏朝鮮が取り入れた日本式の火縄銃部隊は、清がロシアと軍事衝突を起こした清露国境紛争において1654年と1658年の二回、100名、150名と派遣されロシアのコサックを敗走させる活躍をしています。
このように、大砲の性能では後れを取っていた日本は、火縄銃の性能と命中率では当時の先進国だったのです。家康の中にも、芝辻砲は大砲と言うよりは巨大な火縄銃というイメージで、大口径の火縄銃で淀殿と秀頼を直接狙い撃つと考えていたのではないでしょうか?
大坂の陣が国産大砲のレクイエム
しかし、火縄銃で世界水準を超えていた日本は、大砲生産においては、ついに欧州に並ぶ事はありませんでした。その理由としては、① 日本の都市には欧州のような城壁がなく城郭も土塁と水濠が主で当時の実体弾では威力が発揮できない ② 個人の技能を重視する気質で、技術よりも技能が偏重され技術革新が個人の評価に繋がらない ③ 道路が整備されてなく、馬の体格も貧弱で牽引車もないので移動が不便だった。
等が考えられますが、なにより、日本のたたら製鉄では鍛造技術を用いないと、欧州に匹敵する大砲を造る事が出来ず、そうすると芝辻砲のようなコストがバカ高い大砲しか製造できなかったという事ではないでしょうか?
そうなると、大坂の陣は採算度外視で出来ても、世の中が泰平になると、金ばかりかかり、実戦では使えない大砲は顧みられなくなり、進歩が停止、それが幕末まで尾を引いてしまった。kawausoはこのように考えてしまいます。
戦国時代ライターkawausoの独り言
カルバリン砲よりも性能では劣る芝辻砲を家康が造らせたのは、大砲というよりも火縄銃の延長戦上にあり、高い命中精度と飛距離で、直接大坂城天守閣の淀殿と秀頼を爆殺する狙いがあったというのは面白いというか、家康の殺意が感じられて怖いというか、、
参考PDF:金属を通して歴史を観る 23.大砲の歴史と鋳鉄/新井宏/日本金属工業(株)顧問/BOUNDARY 2000.11
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