【徳川家康は大砲マニア】難攻不落の大阪城は大砲で落ちたって本当?

2019年10月15日


 

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徳川家康

 

一世紀続いた戦国時代を終わらせ、江戸二百六十年の太平を開いた徳川家康(とくがわいえやす)。この天下人徳川家康が、大砲マニアだった事はご存知ですか?今回は鉄砲と同時期に伝来した大砲を大量に効果的に使い、難攻不落を謳われた大阪城を落とした徳川家康について解説します。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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威力は認識されていたがあまり普及しなかった大砲

幕末 大砲発射

 

大砲は国崩(くにくず)しと呼ばれ、鉄砲伝来から17~18年後に日本に入りました。最初に大砲を所有したのは、九州のキリシタン大名大友宗麟(おおともそうりん)であり1560年にポルトガル宣教師から購入したフランキ砲です。フランキ砲は全長290センチ大砲の口径は9センチ、射程距離は330メートルから440メートルあり、大阪城の外側から砲撃しても(やぐら)や城壁を破壊する事は可能でした。このように大きな破壊力がある事から、フランキ砲は国崩しと呼ばれ合戦の趨勢を左右する重要な兵器だったのです。ところが、大砲は鉄砲と違って戦国日本ではあまり普及しませんでした、その原因は

 

①重量が重く移動が不便

②金属加工技術が未熟で国内生産が難しい

③国内の鉄生産力が低く鉄は輸入品で貴重

鉄甲船

 

この3点であり、織田信長が鉄甲船六隻に大砲を乗せて木津川で毛利水軍を破った第二次木津川の戦いなどの水戦あるものの戦場で頻繁に使われるようにはなりませんでした。

 



徳川家康の認識を変えた文禄の役での大苦戦

イギリス海軍軍艦に吹き飛ばされる清軍船

 

持ち運びの問題や技術問題により、大砲への関心が薄くなる中で、日本の戦国大名に強烈な衝撃を与えたのが秀吉の朝鮮出兵、文禄(ぶんろく)の役でした。この戦いで日本水軍は、明と朝鮮水軍の大砲により軍船を大量に破壊されます。特に出兵の当事者である豊臣秀吉は、敗戦を教訓に本格的な大砲の国産化を考え堺の鉄砲鍛冶に命じて国産大砲をつくらせて大阪城に配備します。しかし、秀吉が没すると豊臣家の国産大砲への意欲は急激に醒めていきました。

豊臣秀吉 戦国時代

 

この状況で逆に大砲への意欲を強めたのが徳川家康でした。信長、秀吉の成功と失敗を見てきた家康は、大砲の重要性を認識し、天下取りの為に大量の大砲を集め始めるのです。

 

はじめての戦国時代

 

百門の大砲で大阪城を砲撃しまくった家康

 

秀吉が死んで天下が射程距離に入った徳川家康は、大砲導入に積極的になります。関ケ原の直前には、国友鍛冶に十数門の大砲を発注。次に大坂の陣の前にも、国友鍛冶と堺鍛冶に大砲を発注したほかに、イギリス東インド会社にも4門の大砲を注文しています。特に、堺の鉄砲鍛冶、芝辻理右衛門が製造した大砲は芝辻砲と呼ばれ家康の大砲として靖国神社に実物が残っていますが全長3.13メートル、口径は9.3センチあり規格上は、戦国後期のフランキ砲とあまり変わらないものでした。

 

※ただし芝辻砲は実際の合戦では役に立たなかった説もあります。

 

 

 

一方東インド会社から輸入した大砲は大口径の前装式のカルバリン砲で砲弾の重量8キロ、射程距離は6キロもありました。こうして家康が集めた大砲は大半が朝鮮の役で朝鮮半島から持ち帰ったもので百門近くあり、大坂冬の陣が始まると、大坂城に一番近い備前島(びぜんじま)に百門近い大砲を配置して撃ちまくったのです。

 

大坂冬の陣は大砲合戦

 

備前島からの幕府軍の攻撃に、豊臣方も黙っていたわけではなく、秀吉時代に二の丸前に据え付けた大砲で迎撃したようです。こちらも一貫目玉(3.75kg)を飛ばせる国崩しやフランキ砲です。しかし、圧倒的な大砲数の差の前に豊臣方の大砲は焼石に水でした。また、ひっきりなしに鳴り響く大砲の音は、豊臣方を精神的に参らせる効果もありました。特に数発の砲弾が本丸まで届いて櫓を破壊し、淀殿の侍女8名の命を奪ったのは決定的で豊臣方に和睦を決意させる大きな契機になります。

 

家康は、豊臣方を和睦に引き出すと大坂城の堀を埋めさせます。これは当時の大砲が石垣や城門を破壊できなかったからでした。大砲を使って大坂城を開き堀を埋めて、大砲で破壊できない石垣や城門を無効にしたわけです。狡猾(こうかつ)な家康らしい見事な戦略だと思います。

真田丸 真田幸村

 

防衛の要である堀を埋められた豊臣方は城を打って出るしか戦う方法がなくなり木村、後藤、真田など有力武将の部隊は次々と討ち死にを遂げる事になり滅亡を早めてしまう事になります。家康は大坂冬の陣の後も、さらに国友鍛冶に大砲を発注しています。念には念をという事でしょうが、豊臣を滅ぼさずにはおかないという家康の執念を感じます。

 

島原の乱以後、大砲は幕末まで使われなくなる

 

しかし、戦国日本においての大砲の時代は大坂の陣を最期に終焉を迎えます。豊臣氏を滅ぼした事で、徳川幕府の体制は盤石(ばんじゃく)なものになったからです。大砲については、1637年に島原の乱で使われたのを最後に歴史の表舞台から姿を消してしまいます。再び大砲が脚光を浴びるのは幕末、外国船に搭載された大砲の脅威から沿岸警備の必要性が高まってきてからです。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

 

日本における大砲について書いてみました。元々、鉄砲とほぼ同時期に伝来した大砲ですが、技術的に国産化が可能で量産できた鉄砲と違い大砲は技術面でも材料の面でも海外依存が続き、運用についても重量があり、移動が困難なので野戦では用いられず攻城戦や水上での戦いに限定されました。そして、徳川家康による天下統一後、大砲の歴史のハイライトとして大坂冬の陣で豊臣方と幕府方で大砲の撃ちあいが起きたのは、戦国日本の大砲の歴史に終止符を打つ花火のように思えますね。

 

参考文献:武器で読み解く日本史

 

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武田信玄

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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