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ずるいぞ家康!建て前を通し泥をかぶる事を回避したダーティー天下人


 

天下を収めた徳川家康

 

2023年のNHK大河ドラマの主人公である徳川家康。しかし、天下人は家康だけではなく、その前に豊臣秀吉、織田信長が存在しました。どうして織田や豊臣の天下は短期間に終わり、徳川の天下は260年以上も継続したのでしょうか?そこにはイメージにこだわり続け、自ら泥をかぶる事を回避した家康の性格があるようです。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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いつまでも今川家の忠臣顔をするカマトト家康

実はヒャッハーな武田信玄

 

戦国大名たるもの、裏切りは日常茶飯事です。従って真っ白な戦国大名というのはいないのですが、嫌らしい家康は自らを清廉潔白な戦国大名に「見せかけよう」と腐心しました。そんな家康の方針が如実に出たのが桶狭間の戦いの直後でした。主君である今川義元が討たれたという乱波の報告を聞いた家康は「そんなバカな事はありえない。織田のデマであろう」と突っぱねて信じませんでした。

 

武田信玄と徳川家康

 

 

しかし、これは家康のポーズであり、実際には義元が死んだ事を信じています。ただここで義元が死んだ事をすんなりと受け入れると、(あれだけ義元に恩義を受けながら、なんという恩知らずか、ここは真偽を確かめるのが筋であろう)と家臣や義元がつけたようなお目付け役に思われるかも知れません。

 

徳川家康

 

 

そこで家康は思ってもいないのに「義元公が討たれたなんて嘘だ!信じたくない!義元父さーん!」と狼狽してみせ、私は義元公の恩義を忘れない忠義な武将ですよPRをしたのです。

 

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簡単に岡崎城には入らない家康

名古屋城

 

 

しかし、忠臣顔はただのポーズです。家臣たちが「乱波の報告は真実でござる。急ぎ退却しましょう」と口々に言うと「嫌じゃ!嫌じゃ!」と言いながら全速力で本拠地がある岡崎城に逃げていきます。ところが家康のカマトトぶりは、これでは終わりません。岡崎城を目の前にすると、「義元公の死に乗じ岡崎城を奪うとは、恥を知る武士がする事ではない」と言って城に入らず、松平家の菩提寺に入って塞ぎこむフリをします。

 

悪い顔をしている今川義元

 

 

カマトト家康は、こうすれば家臣が汚れ役を引き受ける事を知っていて、家臣の説得を待ちました。案の定、家臣たちは入れ替わり立ち替わり説得にやってきます。それは、義元公には大恩があるとはいえ、実際は三河を収奪していたのであり、岡崎城には収奪のせいで何の蓄えもない。家康はそれでも義元の家来として大高城への兵糧運びも成し遂げたのだし、十分に忠義を尽くしたというものでした。

 

 

義元公、ごめーん!と言いつつ入城

タヌキ徳川家康

 

 

こうして、家臣から義元の悪口を散々に引き出した上で家康は「お前達がそれほどまでに言うのであれば、これも乱世の習い、城に入ろう」と言い、渋々岡崎城に入ります。家康がこうまで自分の清廉潔白イメージに気を付けたのは、義元の後を継ぐであろう氏真の実力が未知数であった事もあります。凡君なら何でもないですが、家督を継いだら意外に名君という事になると、桶狭間後の家康の振る舞いが問題になります。だから、家臣に押し切られて渋々岡崎城に入ったという忠義アピールが必要なのです。

 

 

カマトト家康が天下を獲る

徳川家康に恩義を感じていた小早川秀秋

 

 

家康は、豊臣秀吉が死ぬまで、この清廉潔白アピールを欠かさず、泥は家臣に被せ自分はキレイなままでいるという態度を繰り返しました。しかしポーズではあっても、自分にダーティーなイメージをつけなかった家康は、周囲から大きな信頼を得る事が出来、最終的に幕府を開く大義名分を得る事に成功したのです。

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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