NHK大河ドラマ「どうする家康」第二話「兎と狼」で最新鋭の連発式火縄銃を駆使し家康を窮地に陥れた松平一族、大草松平昌久、しかし、どうして彼は家康を殺そうとするのでしょうか?今回は大河が説明しなかった家康と大草松平の確執を解説します。
大草松平氏は元々岡崎城の主だった
大草松平昌久が家康の命をつけねらうのは、家康の本拠地である岡崎城が元々、大草松平氏の居城だったからと考えられます。簡単に経緯を説明すると元々、岡崎城は西郷頼嗣という人物の居城でしたが、そこに松平の祖である松平信光が自分の五男である光重を養子に入れて、岡崎城を乗っ取ります。こうして誕生したのが光重の子である信貞で、彼が大草松平の初代当主となりました。
岡崎城が家康の祖父に奪われる
その後、松平一族は宗家の岩松松平が伊勢宗瑞の軍勢に攻められるなどして没落し、分家で安祥城を拠点とする安祥松平氏が当主となりました。この安祥松平から家康の祖父である松平清康が登場し、岡崎城を守る松平信貞を追い払って城を奪い、さらに本拠地まで岡崎城に移転してしまったのです。
信貞の子、昌久が復讐に燃える
信貞の後を継いだのが大草松平4代目である松平昌久でした。ドラマとは違い昌久は自分の孫である松平正親を桶狭間の戦いに従軍させていますが、正親は討ち死にしたようです。昌久は1563年三河一向一揆が起きると、反家康派に味方し、吉良義昭の本拠地である東条城に籠城していましたが、家康が戦いに勝利すると行方を晦ましました。
家康との対立は宗教無関係
三河一向一揆に、反家康で参加した昌久ですが、宗派は家康と同じ西山浄土宗で宗教的な対立はなかったようです。だとすると、やはり松平清康に奪われた岡崎城を奪い返したいという気持ちが、昌久を反家康に駆り立てたのかも知れません。
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