あきんどスシロー店内で迷惑行為をした高校生がその様子を動画投稿、その動画がバズリ、拡散を続けてあきんどスシローの株価が急落し、170億円もの損害が出た。あきんどスシローは民事、刑事両面で法的措置を取るとしているが、そもそも、この問題、責められるべきはバカな高校生だけなのだろうか?
この記事の目次
SNSが存在しない時代なら怒られておしまいの話
筆者の青年期はSNSなどなかった。もし、その時代にこの手の迷惑行為があっても、高校生は叱られて罰金を払わされ最悪出禁で終わりだろう。高校生も大人になって「昔はあんなバカな事をしたな」と思い返すだけだった筈だ。
問題は動画を拡散した人間にもある
筆者は昔はよかったと話したいわけでも、高校生を無罪放免にせよと言うのでもない。あきんどスシローは高校生の軽率な迷惑行為による株価下落で170億円の損害を被った。とても許せないだろう。一番悪いのは迷惑行為を嬉々としてSNSに動画投稿したバカな高校生である。
しかし、ここで立ち止まって考えたい、高校生の流したバカな動画を面白半分で、あるいは、単純な義憤に駆られて拡散した顔の見えない無数のSNSユーザーには責任はないのだろうか?と言う事だ。
想像力と責任の欠如したネット社会
SNSはシェアの文化である。この空間では毎日怒涛の勢いで動画が投稿されている。その動画の中で感動した事や面白い事、逆に激しい怒りを覚えた事をユーザーはボタン1発でシェア出来る。
では考えてみたい、高校生の迷惑行為をシェアした人達は、自分達のシェアがあきんどスシローにどんな影響を及ぼすか、少しでも考えたのだろうか?筆者は考えたという人は1人もいないと思う。なぜなら少し考えれば、外食チェーン店であるスシローで衛生面を揺るがす問題動画が拡散されれば、経営に重大な影響を及ぼすと常識があれば分かるはずだからだ。
だが、シェアした人はそんな事には関心がなく、軽い気持ちでシェアを実行した。何故か?ハッキリ言えば他人事だからである。この想像力が欠如した無数の人間のシェアこそが、高校生の取るに足りないくだらない迷惑行為をあきんどスシローの経営、さらには外食産業の信頼を揺るがす大事件に祭り上げてしまったのだ。SNSユーザーの想像力と責任感の欠如こそが、今回の騒動の一番の問題である。
シェアした人も高校生の共犯である自覚を持つべき
高校生の迷惑行為動画をシェアした人の中には、面白半分ではなく義憤に駆られてそうしたという人もいるかも知れない。だが、冷静に考えてみて欲しい、あなたが迷惑動画をシェアした事で、スシローは救われるのだろうか?迷惑行為は減るのだろうか?あなたが溜飲を下げられる程度の事で外食チェーン店の存在意義が問われる大事件になっては、割に合わないのではないか?
これが、高校生の迷惑行為ではなく、スシローの衛生管理の杜撰さを指摘する動画なら、シェアには公共性が備わったかも知れないが、今回は全く別の話だ。多くの人間が欠片の罪悪感も持たずに、本来なら叱られて終わりの高校生の迷惑行為にガソリンをかけ続け、大火事にしてしまったのが今回の本当の問題ではないだろうか?
無責任なシェアが社会を窮屈にする
映画ライムライトの中でチャップリン扮する落ちぶれたコメディアンは大衆をこう皮肉る。「彼ら(観客)は個人的には良い人達なんだけど、集団になると頭のないバケモノになる。どちらの方向を向くかも分からないし、どちらの方向に頭を向けさせられるかも自覚していない」
この「頭のない」という事はもちろん、脳味噌を持たないという事ではなく、自ら考える事を放棄しているという意味である。今回迷惑動画をシェアした人は罪悪感もなければ、シェアがスシローにどういう影響を及ぼすかなんて、少しも考えていない。考えたとしても、「だって、シェアしたのは俺一人じゃないし」と開き直って終わりである。
想像してみて欲しい?僅か1秒で、誰かの人生をメチャメチャにできる致命的なスイッチをあなたが持っているとしたら無関心でいられるだろうか?そして、実際にSNSツールを活用しているあなたはそのボタンを持っていて、毎日、何気なく、よく考えずに押しているのである。この事に恐ろしさを感じないなら、今後似たような事件は量産され、大勢の人間の軽い気持ちのシェアにより人生を破壊される人が出てくるだろう。筆者が今回、違和感を感じたのは高校生を責めるばかりで自らが保有するシェアの暴力性を自覚している人があまりに少ない点なのだ。
文:kawauso
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