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徳川家康が寒村の江戸を発展させたという歴史教科書は半分嘘![どうする家康予備知識]

2023年2月17日


 

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

徳川家康(とくがわいえやす)は天正18年(1590年)、小田原征伐の後に豊臣秀吉の命令で東海や甲州の五カ国を手放し、関東へ国替(くにが)えされる事を余儀(よぎ)なくされました。後世に家康の江戸入りと呼ばれる出来事ですが、家康が入府した頃の江戸は水浸しの寒村であり、家康と家臣は苦労して江戸を開拓し百万都市にしたと言われています。

 

でも、これは家康のサクセスストーリーを強調すべく、かなり盛られた話らしいのです。つまり、本当の江戸は家康入府前でも寂しい寒村ではありませんでした。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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江戸氏が開いた江戸

 

江戸は、平安時代後期に武蔵国の秩父(ちちぶ)地方から出て河越から入間川沿いに平野部に進出してきた秩父党の一族によって開始されます。12世紀には、秩父氏の分家の江戸重継(えどしげつぐ)が江戸の地を領有して桜田の高台に城館を構えます。これが江戸城の原型になりました。

 

鎌倉時代、江戸氏は、平家方になって頼朝方の三浦氏と戦うものの、後に和解して鎌倉幕府の御家人になります。しかし、江戸氏は南北朝の動乱を経て室町時代に入ると衰え、戦国末期には多摩郡の喜多見(きたみ)に移動、代わりに江戸に入ったのが太田資長(おおたすけなが)道灌(どうかん))でした。

 

江戸に城下町を築いた太田道灌

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

道灌は荒れ果てた江戸城を修理改築して康正(こうしょう)3年(1457年)には完成させたそうです。

 

以来、太田道灌は江戸城を拠点とし、文明18年(1486年)に謀殺されるまでは、南関東一円で活躍しました。道灌の江戸城は現在の皇居の二の丸辺りにあり、その北側にある神田周辺が平川村と呼ばれ城下町が形成されていきました。

 

道灌の時代も平川は日比谷入江へ注いでいて、江戸前島を挟んで西に日比谷入江、東に江戸湊があり、浅草湊や品川湊と並んで中世武蔵国の代表的な湊でした。

 

江戸や品川は利根川や荒川などの河口に近いので、北関東の内陸部から水運を用いて鎌倉・小田原・西国方面に出る際の中継ポイントで長享2年(1488年)には、品川浜で伊勢の商船数隻が大風により破損し数千石の米を沈めたと梅花無尽蔵という記録にあります。

 

遣唐船(奈良時代)

 

米数千石を運ぶ船が行き交う湊なら、江戸にはそれ相応の規模の都市があり人口があったと考えても自然ではないでしょうか?

 

また、臨済宗黄龍派(りんざいしゅうこうりゅうは)の禅僧正宗龍統(しょうじゅうりゅうとう)は、当時の江戸の賑わいを

(ともづな)(つな)(かい)(さしお)鱗集蟻合(りんしゅうぎごう)して城下町の日々市をなせり」と寄題江戸城静勝軒詩序(きだいえどじょうじょうしょうけんしじょ)という史料に書いています。意味は、船と船を太い綱で繋いで櫂を水面に差しておき、(ちょう)(あり)が密集するように城下町では毎日市場が立つ位の事です。

 

太田道灌の時代は、長く続いた応仁の乱により荒廃した京都を離れ、権勢家だった道灌を頼りに下向する学者や僧侶も多くいて、江戸は地方都市として繁栄していたのです。

 

 

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太田道灌の死後も武蔵国支配の拠点だった江戸

 

太田道灌の死後、扇谷上杉氏(おおがやつうえすぎし)の当主、上杉朝良(うえすぎともよし)長享(ちょうきょう)の乱の結果、隠居を余儀なくされ江戸城に閉居します。しかし、その後、朝良は実権を取り戻しそのまま江戸で政務を執っていました。後を継いだ朝興(ともおき)も、江戸城を河越城と並ぶ、扇谷上杉氏の武蔵国支配の拠点と位置付けて政務を執り続けています。

 

その後、後北条氏が江戸城まで勢力を伸ばすと、小田原を本拠地にする後北条氏には、江戸は遠すぎて地方の一拠点となりますが、それ以前には政庁をそこに置くような重要なポイントが江戸だったのです。これらを考えると家康の入府までは、江戸が寂しい寒村だったと言う話は、かなり事実と異なると言えるのではないでしょうか?

 

ありきたりの城下町を首都にしたのが家康

徳川家康

 

こう書くと家康は太田道灌のインフラを少し手直ししたと取られそうですが、そうではありません。道灌の治世下で発展したと言っても、それは地方都市のレベルであり、とても首都になるレベルではありませんでした。

 

また、江戸が湊町として栄えたのは、当時の江戸が湿地帯で農業に適さない土地であり、物流輸送で食べていた事の証拠ですが、家康は利根川の流れを変えて江戸から水を追い出し、神田山を切り崩して日比谷入り江をひたすらに埋め立てて平地を造り、関東平野を日本屈指の穀倉地帯に造り替えた上に、江戸を大幅に拡張して、日本一の人口を持つ都市にしたのです。

江戸城

 

その功績はもちろんバカにできるものではありません。家康は太田道灌が江戸に拠点を置いた理由をちゃんと見抜いて、ここを日本の首都にできると確信したのですから、やはり非凡な名将でしょう。

 

 

日本史ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

日本史の授業では当たり前のように習う、「江戸は家康以前には寂しい寒村であり、それを家康が苦労して大きくした」という話は、かなり盛られており事実とは呼べないという話をしました。

 

もちろん家康ばかりでなく、太田道灌や扇谷上杉氏の記録にも嘘や誇張は考えられますし、京都から江戸に来た文化人も、城下町を大袈裟(おおげさ)()めそやす事で有力者の機嫌を取ろうとする社交辞令もあったでしょう。

 

でも、それを差し引いても江戸は太田道灌が居城にして政務を執り、扇谷上杉氏2代が政庁を置いた場所ですから、寂しい寒村ばかりではなかったと思います。

 

参考文献:歴史人日本史の謎100 kkベストセラーズ

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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