甲斐の虎、武田信玄、最強の武田の赤備えと多くの格言に彩られた名将の遺言と言えば、ワシの死を三年の間秘せ!という言葉少なく重々しい武人イメージがあります。
しかし、事実は小説より奇なり、甲陽軍鑑に記された信玄の遺言は自慢話から始まり、負け惜しみ、運命論とだらだらと超長いのです。今回は、本当は超長い、信玄の遺言の前半をダイジェストで紹介します。
この記事の目次
今川、北条はワシが助けた!
武田信玄は、医師に脈が弱く死期が近いと言われ、覚悟をして、主だった家臣を呼び集めて遺言の準備をします。しかし、病の報告もそこそこに何故か、信玄の自慢話が始まるのです。
六年前に駿河へ出陣する前に、板坂法師が言うには、わしは胸の下に食物がつかえる病気があるとの事だった。この病気はモノを考えて心労が積もると悪化するらしい。
さて、この信玄が若い頃から弓矢を取っては、おそらく日本一であるのは、他の大名と違っているからだ。諸国の大名も、まあ、武道にかけては誉れがあるとはいえ、いずれも他国の大将を互いに頼んで両軍協力して勝利を得るもの、あるいはもっぱら武勇だけを頼りにして勇名を轟かす程度だ。
また、多くの国を治めて大大名になりながら、他国の大名の威光に驚き、末子を人質に出そうとする侍などがいたとも聞く。
まず、北条氏康だが、あいつは太田三楽、上杉憲政、長尾輝虎と敵対して怖いので、この信玄を頼って来た。今川義元も氏康と戦った時、我らが出陣して冨士山麓で北条家を攻め、その結果今川と北条が和睦した。が、これもみな信玄が助けたからじゃ
毛利元就は、中国をあらかた支配し、四国、九州まで勢力を持ち、元就を恐れて三好長慶なども、元就が配下のごとく振る舞ったけれども、その元就でさえ信長の威光には震え、四郎という子を信長へ奉公へやる仕度をすすめていると聞く。
甲陽軍鑑より引用
ここまで聞いて、これを遺言と思う人は、まずいないでしょう。信玄は、いかに自分が特別に強い大名か、今川も北条も及ばないかを得々と説いて、さらには、会った事もないであろう山陰の覇者毛利元就も、信長に人質を出す臆病者とほのめかしている始末です。
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長尾輝虎?信長?家康?かかってこんかい!
信玄の遺言は、まだまだ続きます。今度は、長尾輝虎こと上杉謙信、そして、織田信長や徳川家康を大した事ないと、こき下ろし始めるのです。
長尾輝虎は、武勇を全国に轟かせ、関東管領を継いだが、この信玄には負けたままだ。
最近では、わしが出馬せずとも、高坂弾正に命じ弾正だけで越後の領内にしばしば侵入するが、越後から甲斐の領内に入るなど夢にも考えられぬ。この頃は、信州のうちにさえ、おいそれとは出動できない有様ぞ。
その上、越中では大将らしい者もいたのに敗れ、敵に攻められ、翌年には盛り返したりしているが、輝虎でも負ける事はしばしばである。
信長と家康は、互いにあちらを助け、こちらを助けして勝利を重ねてはきたが、信長は包囲した城の囲みを解き、味方を捨てて退く(金ヶ崎の退き口)など、紛れもない引き際の醜さが度々あった。しかも、一向坊主を敵に回し、家康の助けがないとどうにもならない状態だが、その家康は未熟な小童だ。
甲陽軍鑑より引用
ここでも信玄の自慢話は止まらず、長尾輝虎も強いと言うが、甲斐はおろか信濃にも侵攻できないし、信長、家康は、仲良く助け合わないとわしに勝てない、家康は小物で、信長は味方を見捨てて逃げる無様な男と言いたい放題です。
日本を代表する4将の上にいるのが俺様
さて、長尾輝虎、毛利元就、徳川家康、織田信長をディスってきた信玄公、ここから一転して褒め始めます。しかし、もちろん、それには裏があるのでした。
北陸には、輝虎ほどの大将はなく、九州には毛利元就にまさる大将はいない。日本国中にも、輝虎、元就、家康、信長右の4人にまさる武功高い大将はなく、今は、大唐国にもおらんだろう。
ところが、信玄は、手柄を立てるのに若い時から他国の大将を頼って出馬を願い、連合して戦った事は一度もない
ましてや、包囲した城の囲みを解いて退いた事も、味方の城を1つとして敵に奪われた事もない。甲府には、城郭を構えて用心する事なく、館はただの屋敷構えですませてきた。敵国では、五十日に渡り作戦を行い、味方の領地には何者も侵入させず、各地を略奪してまわり、小田原まで攻め込んだうえに帰りに一戦して勝利を得ている。
甲陽軍鑑より引用
はい!出ました。予想は出来ていましたけど、天下無双の4将よりも、俺の方が武勇は上だと言いたいが為に、一度持ち上げたんですね信玄公。これが遺言だって事を忘れそうな自慢話ですし、正直、完全にイメージが変わりました。
しかも、略奪を自慢気に語る辺り、案外ヒャッハーな一面もお持ちのようです。
三方ヶ原合戦でもケチョンケチョンにしてやった
信玄公の自慢話もいよいよ佳境に入りました。
去年の三方ヶ原合戦でも、信長と家康が申し合わせて14カ国を領有している所に攻め込み、二俣城を攻略し、遠州三州の境の刑部に14日間も滞在した。
この間というもの、天下の主顔をしている信長から、色々と和睦を申し入れて来た上に、わしの被官の秋山信友を信長の婿ということにし、それを口実として末子の坊主を甲府まで寄こしてきたが、この信玄は破棄し、信長の居城、岐阜の六里近くまで焼き払って攻めた。
次に、信長めが1万余りの兵で出陣してきたが、馬場信春が千に満たぬ兵で上道一里あまり追い詰めたゆえ、信長は岐阜に脇目もふらずに逃げ込んだ。それゆえに岩村の城をこちらが攻め取った。
まぁ、このように信玄の武勇というものは、人に頼る事もなく、この度も北条氏政が加勢すると言ってきたけれども無用と申したのだ。武門の手柄というのは以上のようなものだ。
甲陽軍鑑より引用
以上が信玄の遺言の前半のあらましですが、どう聞いても、今から死んでいく人の言葉とも思えない武勇自慢の嵐です。
信玄はどうして自慢話をしたのか?
前半だけ聞くと、鼻もちならない信玄の武勇自慢ですが後半を聞くと、その理由が少し分かります。
後半の遺言で信玄は、勝頼を後継者にする事や、孫の信勝が16歳になったら、勝頼が家督を譲る事、長尾輝虎を頼みとし、自分の死を三年の間隠す事。織田や徳川に攻め込まれたら甲斐に引き込んで撃退するなど、細かい指示を出しています。
その中で信玄は、ここまで強い自分がどうして、途中で病に倒れたのか?を自分の実力不足ではなく、家康や信長が戦の幸運に恵まれたツキのある連中だったから敗れたのだと、楚漢戦争の時の項羽のような弁明をするのです。
つまり、私は強かったが、これは天が信玄を滅ぼすのだから仕方がないのだと家臣と自分を納得させると同時に、信長や家康も今は勢いがあっても、やがては衰微する時が来るから、後継者である勝頼には、打って出ないで長尾輝虎を後見に頼み、ひたすら領国を守る事に集中し、輝虎が死に、信長、家康の天運が衰えるのを待てとアドバイスしたのです。
その後半の悲痛さを考えると、前半で信玄が自分を持ち上げ続けたのも、ある意味仕方がない事なのかなと思えてきます。
どこまでも守勢に徹し、打って出るなと勝頼に命じた時、信玄は、恐らく勝頼では武田家は持たないと、どこかで諦観していたのではないでしょうか?
戦国時代ライターkawausoの独り言
甲斐の虎、武田信玄の遺言の前半、いかがだったでしょうか?
kawausoは、信玄と言えば、自制の人で、あまり武勇を誇るというイメージがなかったので、とても意外に感じました。でも、考えてみれば、そむきやすい国衆を抱えて病気になるほどの気苦労をしたんですから、死ぬ寸前くらい、目一杯自慢話がしたい気持ちも分かる気がします。
参考:Wikipedia他
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