武田信玄は歴史ファンの間で最も人気がある人物の1人です。武田信玄といえば、一糸乱れぬ動きをする武田の騎馬軍団を率いていたこと、戦ではほとんど負けを知らないことが挙げられます。
この記事の前半では、信玄の父・武田信虎と比較する形で甲斐国の当主になるまでの経緯について取り上げます。後半では、結束力の固い武田の騎馬軍団を形成するまでの過程について紹介します。
武田信虎と甲斐国の当主になるまでの武田信玄
甲斐の武田家は新羅三郎義光(源義家の弟)を先祖とする名門です。武田信玄は甲斐源氏18代目の武田信虎の嫡男として1521年に生まれました。武田家の家臣の多くは独立心が強く、武田信虎は家臣が従わないと手打ちまたは追放しました。
一方で、武田信玄は昼間から和歌を詠む生活を送っていて、周囲からうつけ者と呼ばれていました。1541年に、家臣は武田信虎を追放して、組みやすい武田信玄を当主に担ぎ出しました。武田家の当主になりましたが、武田信玄は相変わらず昼間から遊んでいました。
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戦を重ねる武田信玄
武田信玄は連戦連勝の騎馬軍団を率いて、甲斐1国から信濃・上州・駿河まで版図を広げたことで有名になりました。なぜ信玄が戦を重ねることを決めたのか気になると思います。
当時、武田信玄の家臣は独立心が強く、信玄を無視して好き勝手にしていました。烏合の衆だった家臣を一枚岩にするために戦を重ねたといわれています。この戦を重ねることを進言したのは軍師・山本勘助でした。
戦での論功行賞については、武田信玄はまとまらない家臣団を結束させるために恩賞として甲州金や領土を即座に渡していました。戦の現場で即座に土地を受け取った家臣たちは、信玄を高く評価したという記録が残されています。
戦による勝利ではなく、家臣も積極的に実力主義で登用しました。戦をすることを進言した山本勘助は軍師になりますが、元々は諸国を放浪する浪人でした。真田幸隆は信濃国小県の豪族でしたが、村上義清に攻められ、浪人となっていました。浪人となっていたところを引き抜きます。他には高坂弾正が挙げられます。高坂弾正は元々百姓でしたが、信玄の近習となり、家臣に抜擢されました。
村上義清に2度負けますが、信濃侵略はほとんどが勝ち戦で、諏訪氏・小笠原氏・村上氏を滅ぼしました。第四次川中島戦いでは形勢が不利になりましたが、家臣が自分のためでなく信玄のために戦い、上杉謙信の軍を撤退させました。信玄が自分のために戦った家臣に感動したといわれています。
武田信玄の福利厚生とは?
武田信玄は烏合の衆の家臣団をまとめるために家臣に対して手厚い福利厚生を考えました。福利厚生として温泉が挙げられます。戦で傷ついた家臣や金山衆(金山など鉱山開発をする人々)の療養にも使われていました。信玄自身も湯村の隠し湯などで療養していたといわれています。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は武田信玄の魅力について取り上げました。武田信玄が最も人気がある歴史上の人物の1人である要因として、連戦連勝を重ねる最強の騎馬軍団を率いていたことや「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり」という結束力が挙げられるのかもしれません。
この記事の前半では、武田信玄の騎馬軍団が一枚岩でなく家臣が好き勝手にしていたことを取り上げました。山本勘助が戦を重ねることで結束力を固められると進言すると、その進言を受け入れ、戦を重ねました。家臣への恩賞についてはその場で土地や甲州金を与えることで、信玄を高く評価するようになりました。
後半では、武田信玄の福利厚生について温泉などの療養施設の充実を取り上げました。家臣や金山衆など身分に関係なく温泉を使えるようにすることで結束力を固めました。
恩賞の与え方や温泉による福利厚生は家臣を気遣う信玄の姿勢が見られます。信玄の気遣いが家臣にとって信玄の魅力になっているのかもしれません。
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