今回は織田信長と上杉謙信の関係について注目します。
織田信長は連戦連勝という印象を受ける読者がいるかもしれませんが、必ずしも連戦連勝とはいえません。織田信長は越後の上杉謙信を恐れていて戦うことを避けていたといわれています。
この記事の前半では織田信長が上杉謙信との戦いを避けていた経緯について取り上げます。
後半では、唯一の直接対決である手取川の戦いについて取り上げます。
織田信長は上杉謙信を恐れていた?
織田信長は室町幕府15代将軍足利義昭の号令によって一向一揆・浅井朝倉の連合軍・武田信玄・毛利輝元らに包囲されていました。
上杉謙信との同盟を重視して信長を取り巻く包囲網を打開しようとしていました。
織田信長と徳川家康の連合軍は浅井朝倉の連合軍を姉川の戦いで破っただけでなく、武田信玄が病死したという出来事もありました。信長を取り巻く包囲網が崩れ始め、足利義昭を京から追放しました。
近江国の戦国大名浅井長政と越前国の戦国大名朝倉義景も滅ぼしたことによって北陸地方への進出を始めます。
信長は引き続き、上杉謙信を警戒していたといわれています。信長が上杉謙信に贈った洛中洛外図屏風が山形県米沢市の上杉博物館にあります。この屏風には武家行列中で輿に乗っている一人の武将がいます。
その武将が上杉謙信であるという説が有力となっています。
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織田信長と上杉謙信との直接対決・手取川の戦いとは?
手取川の戦いの前年までに上杉謙信は能登国の七尾城を落とし、能登国の戦国大名畠山氏を滅ぼしました。
畠山義隆の死後、幼少の春王丸が継いでいましたが、春王丸は病死しました。
畠山家の間では家臣らの争いが絶えない状況でした。畠山の家臣だった長続連は織田信長と親交がありましたが、上杉派の家臣に殺されました。長続連の五男の長連達は手取川の戦いで前田利家の家臣として織田方についています。
1577年に手取川の戦いが加賀国で起こりました。上杉軍は約2万で、織田軍は約4万でした。
数の上では織田軍が有利でしたが、雨で鉄砲が使えないという弱点をついて上杉謙信は奇襲を仕掛けました。
その結果、上杉軍が勝利し、織田軍は敗れました。織田軍の損害は死傷者・溺死者が多数といわれています。この戦いでは、織田軍の中で柴田勝家と豊臣秀吉との仲が悪く、豊臣秀吉は戦いの場から離れました。
結果、秀吉は謹慎処分を受け、長浜城で謹慎しました。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は織田信長が上杉謙信を恐れていたことと唯一の直接対決である手取川の戦いについて取り上げました。
織田信長は上杉謙信に洛中洛外図屏風を贈ることによって直接対決を避けようとしていたことが分かりました。
織田信長と上杉謙信の直接対決はこの手取川の戦いだけで、以降織田と上杉の直接対決はありませんでした。この戦いの後、上杉謙信は49歳で病死しました。
上杉謙信の跡継ぎ争い(御館の乱)が起こり、一時上杉の勢力は衰えました。その隙をついて信長は越中と上州を攻め、信長の領土となりました。
織田信長は1582年に本能寺の変で自害しました。越中と上州から信長の兵が越後に向けて攻めてきましたが、織田軍の兵士は本能寺の変が起こったことを知ると兵を引き始めました。
本能寺の変によって上杉氏は織田に滅ぼされることなく残ることができました。上杉謙信の跡を継いだのは上杉景勝で、景勝は豊臣秀吉の家臣となり、後に越後から会津120万石の大名となりました。
豊臣秀吉の政権の中枢である五大老の一人にもなりましたが、関ヶ原の戦いのきっかけとなる戦争を会津で起こしたことや西軍についたことから米沢藩10万石に減らされました。
以降、上杉氏は米沢藩主として江戸時代まで続きました。
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