今回は戦国時代最強の武将といわれた本多忠勝の意外な性格について取り上げます。
最初に、本多忠勝の戦いをまとめます。この記事の後半では、本多忠勝の逸話について取り上げます。
本多忠勝の戦いから読み取る性格
本多忠勝は1548年に三河国で生まれました。
初陣は桶狭間の戦いで、大高城を攻めたとき、自ら敵陣に向かい、敵の首を挙げたといわれています。
今川義元が桶狭間の戦いで討ち死にすると、徳川家康は独立し、徳川家康の家臣となりました。後に井伊直政や榊原康政らとともに徳川四天王の一人と呼ばれるようになります。
徳川家の家臣となっても自ら敵陣に突撃する姿勢は変わりませんでした。1570年の姉川の戦いでは朝倉の1万の軍勢を切り崩すことに成功しました。
三方ヶ原の戦いで、本多忠勝は夜襲で武田軍を混乱させています。三方ヶ原の戦いでは徳川の敗戦が強調され、本多忠勝の戦いは強調されていませんが、戦国時代最強の騎馬軍団に対しても自ら敵陣に突進する姿勢は変わらなかったといえます。
1584年の小牧・長久手の戦いでは、16万の豊臣軍の前に、忠勝は500の兵で駆けつけ、豊臣方の軍を撃退しました。敵にめがけて突進していますが、率いているのは少数の兵です。
少数の兵で戦っていますが、かすり傷を一切負わなかったという伝説が語り継がれています。
本多忠勝は関ヶ原の戦い後に桑名藩10万石の藩主となりました。桑名藩の藩主となると街づくりに力を入れました。
1610年に63歳で病気により死亡しました。
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本多忠勝の逸話から読み取る性格
ここでは本多忠勝の関ヶ原の戦いでの逸話について取り上げます。
関ヶ原の戦いで、東軍の兵士が毛利秀元や長宗我部盛親の軍の動向を気にしていると、戦う気があるならば既に山を下りているはずであるといいました。さらに、山を下りていないということは戦う気がないからだといい、不安に思っている兵士を安心させたといわれています。
1600年の関ヶ原の戦い前に、徳川家康は東軍を中山道と東海道の二手に分け、関ヶ原で秀忠が率いる本隊と合流するつもりでいました。
秀忠は中山道の途中にある信濃国の上田城を攻めますが、当時上田城には真田昌幸・信繁(幸村)親子が籠城していました。徳川秀忠は信濃国の上田城を攻めますが、苦戦しました。
上田城を落とすことをあきらめて関ヶ原に向かいますが、関ヶ原に着いた頃には戦いが終わっていました。秀忠は家康に遅参したことを叱責されます。
秀忠はこの遅参で西軍の真田昌幸・信繁親子に怒っていたので、死罪にしようとしました。
秀忠は死罪にしようとしましたが、本多忠勝が助命嘆願をしたことにより真田親子は高野山の山麓にある九度山に蟄居となりました。信繁の兄の真田信之が信濃国の上田城の城主となりました。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は本多忠勝の性格について取り上げました。
本多忠勝といえば、初陣から最前線で戦っているにもかかわらず、かすり傷一つ負っていないという逸話が有名です。
この記事では、関ヶ原の戦いで指揮官として兵士を安心させたことを取り上げました。
戦いだけでなく戦局を予想することにも優れていたことも取り上げました。
真田昌幸・信繁親子の助命嘆願も取り上げました。当時、本多忠勝の娘は信繁の兄の真田信之に嫁いでいました。2016年の大河ドラマ『真田丸』で、本多忠勝が徳川家康に真田親子の助命嘆願をするシーンがありました。この読者の中には助命嘆願のシーンを思い出した人がいるかもしれません。
最後に、大河ドラマや教科書では戦国武将の意外な性格を知ることが難しいです。
今後、本多忠勝だけでなく、様々な戦国武将の意外な性格や逸話に注目したいと思います。
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