坂本龍馬といえば、幕末の風雲児として映画やドラマでは、特に重要な役どころではなくても、出てくるようなメジャーな存在です。そんな龍馬の魅力と言えば、幕末の混乱を己の才覚と身分を問わない人間関係で乗り切った一匹狼のビジネスマン、ヤングエグゼクティブのイメージでしょう。
しかし、最近の歴史研究で龍馬は一匹狼どころか土佐藩士から薩摩藩士に移籍。西郷隆盛を上司として活動していたと言われているのです。
この記事の目次
坂本龍馬は薩摩藩士だったズバリ!
では、ここで坂本龍馬は薩摩藩士だったという記事のポイントをザックリ解説します。
1 | 神戸海軍操練場閉鎖後、坂本龍馬は薩摩藩に引きとられる |
2 | 亀山社中の「社中」とはグループの意味で会社を意味しない |
3 | 薩長同盟覚書の裏書は龍馬が薩摩藩士だからこそ意味がある |
4 | 土佐藩士高見弥市は薩摩に鞍替えし大石団蔵と名乗った |
5 | 龍馬は個人で長州と太いパイプを築いたスゴイ人 |
以後は、それぞれの項目について少し詳しく見ていきましょう。
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神戸海軍操練所閉鎖で薩摩藩士になる龍馬
坂本龍馬が尊王攘夷運動の中で、土佐藩を脱藩したのはよく知られています。
その後龍馬は、勝海舟に師事し海軍を学ぶために神戸海軍操練所に入りました。入ったと言っても龍馬は正式な海軍操練所のメンバーではなく、海舟私塾の塾頭身分であり、操練所の設備を借りて学んでいたのです。
しかし、操練所は開所から1年持たずに、反幕的人材を育成しているとして、閉鎖を余儀なくされ、海舟は路頭に迷いそうな龍馬等、私塾の生徒を薩摩の西郷隆盛に託しました。
同じ頃、薩摩藩も薩英戦争で壊滅した海軍を立て直す必要があり、中途半端ながら航海技術を持つ坂本龍馬一行を迎え入れたのです。神田外大准教授で明治維新史が専門の町田明広氏は、この段階で龍馬は薩摩藩士になったと考えているそうです。
亀山社中というカンパニーは存在しない
坂本龍馬が薩摩藩士だとすると、有名な亀山社中はどうなるのでしょうか?
町田氏によると、亀山社中という名前は明治時代以降の事で、当時はただ社中と呼ばれていた事を指摘します。
そして、社中という言葉は、Wikipediaによると広義には同じ目的を持つ人々で構成される仲間や組織を指すとあり、営利団体の会社という意味合いは薄く、グループという方が適当です。
つまり亀山社中は龍馬を中心に薩摩の船を動かし長州藩に武器や弾薬を運ぶだけの運び屋グループであり、龍馬を社長とするカンパニーの実態は無かったわけです。
実際に長州藩士だった伊藤博文は明治になってから、亀山社中など存在しないし、武器や軍艦の購入など何もしてないと苦々しく述懐しているそうです。史実の亀山社中は赤字ばかりで一度も利益を出していないとされますが、社中がただの輸送屋なら納得できますね。
薩長同盟の裏書が証拠
また、坂本龍馬の業績のハイライトでもある薩長同盟も龍馬の手柄ではないようです。薩長同盟は、当初は軍事同盟ではなく、長州藩が再び幕府と戦っても薩摩は幕府にはつかず中立を維持し、同時に朝敵となった毛利父子の復権を朝廷に願い出る六カ条の覚書とでも呼んだほうがいい代物でした。
しかも、六カ条の取り決めは桂小五郎と薩摩の小松帯刀の口約束であり、薩摩に取り決めを反故にされる事を恐れた桂が、たまたま現場に居合わせた薩摩藩士の龍馬に、六カ条を書いてみせ、内容に間違いない事を証明する為、裏書を求めたのが真相です。
どうして桂が龍馬に裏書を求めたか?と言えば、それは、龍馬が薩摩藩士だと考えられていた以外に理由がありません。もし龍馬が一匹狼なら、裏書を求めたところで何の意味もありませんからね。
いざ、薩摩が約束を履行せずにしらばっくれたら「ここに薩摩藩士、坂本龍馬の裏書がある!」と圧力を掛ける為、桂は気の良い龍馬を利用したとも言えます。
土佐藩士から薩摩藩士に鞍替えした大石団蔵
坂本龍馬や海援隊士の分限帳は見つかっていないので、坂本龍馬が薩摩藩士であるという物的証拠は出てこないと考えられています。しかし、元は龍馬と同じ土佐藩士で土佐勤王党に属し、後に薩摩藩士になった人物は確認されています。
JR鹿児島中央駅前に立つ「若き薩摩の群像」に薩摩スチューデントの1人として最近加えられた大石団蔵、元の名前を土佐藩士、高見弥市です。彼の転籍の記録は子孫に伝えられていて確実で、もう1人の通訳、掘孝之も薩摩藩士ではなく、長崎通詞の家柄でした。
このように幕末の薩摩は、藩にこだわらず有能な人材は薩摩藩士として組み入れている事が窺え、坂本龍馬が薩摩藩士になっていても特に不思議はないのです。
薩摩にスカウトされた事がスゴイ!
坂本龍馬が薩摩藩士だったとして、過去の一匹狼独立ベンチャー企業主イメージが覆ったとしても、それにより坂本龍馬の凄さが半減するわけではありません。そもそも、薩摩藩が龍馬を筆頭に海舟の私塾塾生の面倒を見たのは、長州と太いパイプがある龍馬の人脈を買っての事だったからです。
薩摩藩と長州藩の人材交流が密になるのは、薩長同盟で桂小五郎と小松帯刀が会見した後の事で、村田新八と川村純義が最初に長州に出向き、次には桐野利秋や篠原国幹が長州藩を訪れていきますが、それ以前の長州と薩摩のパイプは坂本龍馬しかいませんでした。
一介の脱藩浪人の龍馬が、薩摩藩から見込まれて長州藩との折衝に抜擢されるのは異例の事で、坂本龍馬の桁外れの人間力、人望の厚さが垣間見えます。
先進性では色あせてきてはいますが、人のアイデアを吸収して自分のものにしていく能力。そして出会った人間を魅了する天性のカリスマ性は坂本龍馬ならではのキャラクターと言えるでしょう。
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幕末史ライターkawausoの一言
坂本龍馬は幕末史に大きな足跡を残す事はしていませんが、その大舞台の下で一流スター達の仕事を支えていたのは紛れもない事実です。実際の社会ではむしろ龍馬のような役割の人の数が多いのであり、一連の新説でkawausoは増々坂本龍馬のファンになっています。
黄金の虚飾が剥れる中で、その地金の銀が渋く輝きだした。坂本龍馬については、最近はそのようなイメージですね。
参考:新説の日本史 (SB新書) 新書 / 2021/2/6/亀田俊和 (著)/河内春人 (著)/矢部健太郎 (著)/高尾善希 (著)/町田明広 (著)/舟橋正真 (著)
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