日本では自民党の憲法改正案に対して反対し立憲主義を守れ、憲法を守れという声が強くなっています。しかし、立憲主義ってそもそも何?という問いに答えられる人は多くはないと思います。そこで今回は立憲主義の基礎になったイギリスの成文法、マグナ=カルタを解説します。
マグナ=カルタとは?
マグナ=カルタは、大憲章とも称され国王に対し、例え王でも、みんなで決めた法律に従えと命じた家臣からの命令書です。マグナ=カルタが出されるまでイギリス国王は他の欧州諸国の王と同じように、勝手気ままに諸侯や教会に課税したり、気に入らない部下をいきなり逮捕して処刑したり、やりたい放題をしていました。この王の無制限な権力に法による拘束をかけたのがマグナーカルタだったのです。
ワガママなジョン王の身勝手に諸侯と市民がブチ切れ
マグナ=カルタが出された時の王は、十字軍遠征で有名な獅子心王リチャード1世の弟ジョンでした。ジョン王はフランス王フィリップ2世と抗争していて、フランス出兵のために諸侯や都市に戦争のための莫大な課税をします。これに対し、イギリス諸侯と都市の上層市民は課税を拒否。ジョン王は出兵を強行しますが、フィリップ2世に敗北してイギリスに逃げ戻りました。
それでも反省の色がないジョンに対し、諸侯は王への忠誠破棄を宣言して挙兵。ロンドン市民も諸侯に応じ首都ロンドンは反乱軍が制圧してしまいます。ジョンは妥協をはかり1215年6月15日、テームズ河畔のラニミードで彼等の要求に従いマグナ=カルタに署名。イギリスは世界に先駆けて国王であっても法の支配を受けるとする立憲主義の誕生を経験します。
法の支配と議会政治の原則を記したマグナ=カルタ
マグナ=カルタは、封建社会で慣習的に認められていた諸侯の権利を国王が追認したもので、国王権力の制限と共に、教会の自由、市民の自由、不当な逮捕の禁止など人権に関する規定を含んでいました。また、第12条の国王が軍役金を課税する場合は諸侯会議にて承認を得る必要があるという一文は、後年、国王であっても議会の議論を経ずに課税は出来ないと解釈されるようになり、法の支配と議会政治の原則が成立した点に大きな意義があります。
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ジョンとヘンリを撃破しマグナ=カルタが確立
しかしジョン王は、本気でマグナ=カルタを守るつもりはなく、すぐに勝手な行動をとり始めます。これに怒った諸侯や市民はジョンが敵対していたフランスのフィリップ2世の弟、王太子ルイに援軍を要請しルイはイギリスに上陸。ジョンは戦いの末に戦死します。ルイは、その後イギリス諸侯の信頼を失い、王位はジョンの息子のヘンリ3世に移行します。ヘンリは幼少で即位しますが、成人して親政を開始すると父同様、マグナ=カルタを無視して勝手な課税を開始しました。
これに反発した諸侯は、シモン=ド=モンフォール伯に率いられて反乱。戦いの末、ヘンリは敗れて息子と共に捕虜となり、1265年に最初の議会であるモンフォール議会が開催されヘンリは父王同様にマグナ=カルタに正式に署名しました。ヘンリ3世の後を継いだエドワード1世は、諸侯の力を思い知り、もはや勝手な課税をせず、戦争で徴税が必要になると議会を開くようになります。やがて議会招集は伝統となり、立憲主義の確立に繋がるのです。
権力者を縛れない日本国憲法
マグナ=カルタ成立の過程は、王の恣意的な権力行使を制限したい諸侯と、それを無視しようとする国王との戦いの歴史でした。王がマグナ=カルタを破った時、諸侯が恐れずに抵抗したから、王は諸侯の力を恐れ法の支配に服しました。紙に書いただけの文章に王は従いませんが、法を守らないなら身の安全は保障しないと迫る諸侯の意志の前には怯えて屈服しました。これこそが立憲主義です。
しかしながら、日本では立憲主義と言いながら憲法9条により違憲状態の自衛隊さえ改憲して憲法に位置づけできず、度重なる自公政権の憲法違反を見ている野党でさえ口先で憲法を守れというだけで、憲法を改正し権力者を法に縛り付ける立憲主義を実行できないでいます。破られたままの憲法を放置すれば、権力者は次第に増長し、ジョン王など比較にならない横暴な振る舞いを日常化させるでしょう。権力者を雁字搦めに縛り、好き放題をさせないためにも日本国憲法の改正は必要なのです。
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