随分前から地方から東京への人口一極集中が問題になっています。東京の人口は1200万人で、日本の総人口1億2000万人の10%が東京に住んでいる事になります。人口が多いと住環境が悪化し、環境汚染も激しくなりますし、何より首都直下型地震の被害も心配ですね。
しかし、東京の一極集中は今に始まった事ではなく江戸時代からのジレンマでした。では、どうして江戸に人口が集中するようになったのでしょうか?
この記事の目次
江戸の一極集中の理由はズバリ!
では、江戸一極集中の理由を知る為に2000文字も読んでられねーよとお怒りのせっかちな読者さんの為に、理由をズバリ解答しましょう。
1 | 江戸建設の為に来た労働者が住み着いた |
2 | 江戸では人寄せの為に町人が無税だった |
3 | 参勤交代で全国の大名と家臣が集まり一大消費地になった |
4 | 消費地の江戸に向けて全国からの交通網が整備された |
5 | 日比谷入江の埋め立てで広大な宅地が生まれた |
6 | 明暦の大火後計画的な都市整備が始まり経済が繁栄した |
7 | 人口過密と強風と放火が頻繁な家事を生み仕事を造る |
以上が江戸一極集中の理由です。以下では、江戸一極集中について、もう少し詳しく説明します。
江戸建設の為に来た労働者が住み着く
江戸の一極集中が始まった最初の理由は、江戸が元々、それほど人口が多くなく幕府が開かれるにあたり、大勢の労働者が江戸建築に駆り出された為だと考えられます。
江戸の人口比率は江戸後期まで男女比で男が圧倒的に多いので、動員された労働者は男性の独身者が多く、恐らくそれまで戦場で傭兵をしていたような人々だったと考えられます。彼らはそもそも身寄りがなく、その後も開発が続く江戸に住み続けたと考えられます。その単位は十万単位だった事でしょう。
町人タックスヘイブンな江戸
戦国時代、江戸以外の大都市では、土地を持たない町人でも税金を取られていました。例えば、京都では間口の広さに応じて地子銭という税金が掛けられていたそうで、京都の町民は少しでも地子銭を安くしようと玄関の間口を狭くして奥行きを広くした、うなぎの寝床のような住宅を作りました。
しかし、江戸幕府は江戸の人口を増やして商業を盛んにする目的から地子銭を免除、江戸263年間を通じ、町人は税金を支払う必要がありませんでした。江戸は無税という噂はたちまち広まり、各地から土地を持たない町人が集まったのは言うまでもありません。
参勤交代が江戸を消費地にした
江戸だけにあり、他の大都市にはないものとして、参勤交代制があります。これは、徳川家への忠誠を忘れない証として、一年ごとに大名が江戸と領国を往復する軍役で、人質として大名の正室と後継ぎは江戸に留め置かれました。
家臣を江戸に常駐させる必要に迫られた諸藩は、江戸城の周辺に上・中・下屋敷を構えて、江戸と領国で二重生活を開始します。もちろん、武士は自ら生産活動はしませんので、消費財を農民や町人から購入するようになり、江戸に莫大な需要が生まれたのです。
江戸が百万都市になった頃、半分の五十万は武士人口であったそうで、いかに多くの武士の消費に、農工商の身分が支えられていたかがわかります。
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一大消費地の江戸に向けて街道が整備された
江戸が百万都市になると、当然、全国の街道が江戸に向かって整備されていく事になります。交通の便が良くなると、人やモノ、カネがより高速で快適に移動できるようになり、その事がさらなる人と物とカネを呼び寄せる事になりました。
これらの街道は、全国から参勤交代で集まる諸大名の交通の便を良くするために整備されましたが、その事も人口の流入に拍車を掛けました。
日比谷入り江の埋め立て
江戸は元々、多くの河川が流れ込んでいる湿地帯で、あまり多くの住宅地を確保できませんでしたが、日比谷入り江の埋め立て事業により、平坦な土地が確保出来て、大名屋敷、旗本屋敷、町人の町が大規模に建設できるようになりました。
明暦の大火が機能的な江戸を生んだ
徳川家康が開き、秀忠、家光が拡張した江戸は、最初は計画的な城下町ではなく、自然発生的に大きくなっていましたので、開府から半世紀も経過すると人口過密問題が生じてきました。
しかし、明暦3年(1657年)1月18日、本郷丸山にあった本妙寺から火事が発生。折からの乾燥と北風に煽られ、江戸の2/3が焼失する大火災、明暦の大火に発展します。108,000人が焼死し、江戸城の天守閣まで焼いた大火災は、大名屋敷が江戸城に近い場所に密集し、火除け地もなかった事が大火の原因でした。
そこで、明暦の大火後、知恵伊豆と呼ばれた松平伊豆守信綱が先頭に立ち、江戸の大改造に着手。場所を取る大名屋敷は江戸郊外に引っ越しとなり、空いたスペースには火除け地と町人の屋敷が立ち並ぶようになります。
こうして、雑多な居住地だった江戸は都市計画に基づいた機能的な都市となり、明暦の大火以前に比べても飛躍的に栄えるようになりました。
頻繁な火事
江戸は他の大都市と比較して火事が多い都市でもありました。例えば、江戸の町人の居住区は狭い上に木造家屋で燃料が薪だったので失火が多く、特に冬場は北西の季節風が強風を起こし火事を際限なく広げました。
こうして、火事で住居が焼けると、町の再建という名目で多くの労働力が必要になり、江戸には人足仕事が多く出る事になり、地方から流れ込んだ人口に仕事を提供したのです。
大火以外の火事も含めれば江戸267年間で火事は1798回を数えており、1年で平均6回以上は火事が起きている計算になります。
江戸は焦土と再建を繰り返しつつ、雇用を生み出す都市だったのです。
日本史ライターkawausoの独り言
江戸に人口が一極集中するようになった理由は、以上の7つの点が挙げられます。明治維新後は、一時、大名と家族が領地に帰った事で人口が激減して寂れますが、明治天皇が江戸に遷都すると、皮肉な事に放置された多くの大名屋敷が官公庁や諸外国の公使館商業ビル群として生まれ変わり、再び日本の中心地となって江戸時代以上の一極集中が進む事になるのです。
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