織田信長は戦国時代系のゲームやマンガに登場する人気戦国武将で、よく口癖で「~であるか」などと言っている所を耳にする方が多いと思います。しかし織田信長は本当に「~であるか」と口癖のように言っていたのでしょうか。
信長は「~であるか」は確かに言っていた
織田信長はそもそも「~であるか」と言っていたのでしょうか。
織田信長に関する書物を色々と調べてみると確かに織田信長が「~であるか」と言っている記述を発見しました。織田信長に仕え「信長公記」を書いた太田牛一。
彼は「信長公記」で織田信長が「~であるか」と言っていると述べています。一体織田信長はいつごろ「~であるか」と言っているのでしょうか。
斎藤道三との会見の時
織田信長は美濃を領有していた戦国大名でマムシのあだ名を持った斎藤道三との会見の時に「~であるか」と言っていたそうです。
しかし織田信長は斎藤道三との会見以降、「信長公記」で「~であるか」と言っていたとの記載が出てこなくなります。ということは織田信長は「~であるか」と口癖のように言っていたわけではない可能性が非常に高いと言えるでしょう。
振り出しに戻りますが、織田信長の口癖は一体何なのでしょうか。
織田信長の口癖「尾張弁」
織田信長の口癖はいろいろな書物を探してみました。しかし織田信長が常日頃口癖として使っていた言葉を見つけ出すことはできませんでしたが、推察することはできるとおもいます。
ここからはレンの推測を語っていきたいと思います。織田信長は尾張の小大名から始まるのは皆さんご存知だと思います。戦国時代尾張は、尾張弁が使われており、織田信長も尾張の小大名時代の口癖である「そうでや」などの尾張弁を使っていた可能性があります。
どうしてレンはそのような可能性にたどり着いたのか。それは宣教師・ロドリゲスが作った「日本大文典」に尾張弁に関する記載が乗っているからです。
宣教師・ロドリゲスは織田信長が亡くなり、豊臣秀吉の時代になってから日本へやって来た人物です。そのため宣教師・ロドリゲスは織田信長と直接会う機会はなかったと思われます。
しかし宣教師・ロドリゲスは「日本大文典」に尾張弁のことを記載しているという事は、豊臣秀吉と会見する際、尾張弁が話されていた可能性があったのではないのでしょうか。
そして豊臣秀吉が尾張弁を話していたとすれば、秀吉の君主であった織田信長も尾張弁を話していたと思われます。織田信長が公式の場では尾張弁を話していないと思われますが、家臣との会議や重臣たちと宴会をした時には尾張弁が使われていたと思うのですが、みなさまはどのように思いますか。
戦国史ライター黒田レンの独り言
今回は織田信長の口癖について紹介しました。
ここからは「~であるか」と同じくらい有名な「是非もなし」についてをちょこっと紹介して終わりにしたいと思います。織田信長は本能寺の変で亡くなる間際に言っていた「是非もなし」ですが、「信長公記」にしっかりと記載されています。
では「是非もなし」の意味は一体どのような意味なのでしょうか。「是非もなし」には色々な意味がありますが、今までは「諦めた」や「しょうがない」などの意味として取られていました。
しかし織田信長が家臣に対してこの「是非もなし」という言葉を述べると「物事のよしあしを考えている暇があったらとっとと戦え!!」と家臣たちへ命令していると受け取ることができます。
ネットで「是非もなし」と調べると「良いも悪いもないこと」と記されています。もし織田信長が独り言で言っていれば「しょうがない」などの諦めとして受け取れます。しかし織田信長が家臣たちへ「是非もなし」と行っているのであれば、上記で紹介した取り方もできるのですが、みなさまはどのように思いますか。
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