織田信長は生涯の内に何度か焼き討ち作戦を行っています。どうして織田信長は焼き討ち作戦を行ったのでしょうか。
今回は織田信長と焼き討ち作戦について紹介していきたいと思います。
織田信長が生きているうちに行われた焼き討ち作戦
織田信長は本能寺の変で倒れる前に焼き討ち作戦が行われています。
例えば朝倉・浅井連合軍を匿った比叡山の焼き討ち作戦は織田信長を知らない人でも聞いたことがある作戦だと思います。また甲斐・武田氏を滅亡させた後、恵林寺も焼き討ちされます。
この恵林寺の住職・快川紹喜は「心頭滅却すればまた火も涼し」の有名なセリフを残しており、知っている方も多いのではないのでしょうか。
このように織田信長が生きている間に何度か行われていますが、一体どうして焼き討ち作戦が行われたのでしょうか。比叡山焼き討ち作戦と恵林寺の焼き討ちは理由が違うので、ひとつずつ紹介していきたいと思います。
比叡山焼き討ちを行った理由
織田信長のことを詳しく書き記している「信長公記」は織田信長が比叡山を焼き討ちした理由についてこのように記しています。
織田信長が比叡山を焼き討ちした理由は「比叡山が僧侶の分際をわきまえずに朝倉・浅井連合軍に肩入れしたため、信長公が『われに味方すれば、叡山の領土はすべて保全しよう。しかし敵対行為を続けるのであれば、比叡山の根本中堂以外すべて焼き払うぞ』と回答を求めた。
しかし比叡山は信長公の回答に確答をしないで、朝倉・浅井連合軍に味方。だから信長公は翌年比叡山焼き討ち作戦を行っている」と「信長公記」で記しています。
「信長公記」は続いて「信長公は仏法の修行を怠り、淫乱な行いをし、肉を食べたりして破戒活動ばかりしている僧侶を許しておくわけには行かない」としつつ「信長公は朝倉・浅井連合軍に味方した比叡山に恨みを晴らすため」としています。
織田信長は比叡山焼き討ちを行った理由は怨恨と比叡山の僧侶たちが仏教の道から外れたことが原因で焼き討ち作戦を行ったとされています。
では恵林寺焼き討ちはどのような理由から行われたのでしょうか。
恵林寺焼き討ちは息子の独断専行
織田信長は甲斐武田家を滅亡させた後、恵林寺を焼き払っています。恵林寺焼き討ち作戦はどのような理由から行われたのでしょうか。
それは織田信長の息子・織田信忠が家臣に命令して行った作戦で、織田信長が直接関与している作戦ではありませんでした。
しかし一つ疑問が残りますね。
どうして織田信忠は恵林寺を焼き払ったのでしょうか。それは織田家に敵対していた武将たちが恵林寺へ逃げ込んでいたからです。
織田信忠はすぐに恵林寺を包囲しますが、いきなり焼き討ち作戦を行うことをしないで、まずは恵林寺の住職・快川紹喜と交渉します。織田信忠は快川紹喜へ「君のところに匿われている若狭武田氏や六角氏達の身柄を私に引き渡してくれないか」とお願いします。
しかし快川紹喜は「嫌だ。そんなことはできん。」と織田信忠の要請を拒否。
織田信忠は快川紹喜に断られたことで激怒。そして織田信忠は織田家に敵対してきた武将と一緒に快川紹喜もろとも恵林寺を焼き討ちをしたのが、作戦の実情です。
戦国史ライター黒田レンの独り言
今回は織田信長と焼き討ちについて紹介しました。
織田信長が行った比叡山焼き討ち作戦はただ恨みつらみから行ったわけではなく、しっかりとした理由があって行った作戦でした。しかし織田信忠が行った恵林寺焼き討ち作戦については、単純に怒りに任せて行っていたので、理由があるとは言い難いですが・・・・。
■参考文献 織田信長 (ちくま新書)
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