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[戦国のフリー武将]水野勝成の驚きの逸話

2023年6月20日


 

水野勝成

 

現在、働き方改革でフリーランスという働き方が注目されています。戦国時代の武将は戦国大名に一生仕えるのが慣習となっていますが、現代のフリーランスに近い戦国大名がいました。

 

今回はフリーランスの戦国武将・水野勝成(みずのかつなり)について取り上げます。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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水野勝成の生い立ちとフリーになった動機

 

水野勝成は1564年に生まれました。勝成の父は徳川家康(とくがわいえやす)の母の弟に当たる人物で、家康とは親戚関係にあります。16歳のときに遠江にあった高天神城を攻めました。これが勝成の初陣となり、勝成の父が織田信長(おだのぶなが)の家臣となりました。

 

この後にも高天神城で戦いがありましたが、水野勝成は活躍し、織田信長から感謝状と刀を受け取ったと言われています。本能寺の変以降、水野勝成は父とは別に徳川家康の軍勢に加わります。

 

小牧長久手の戦いでは、水野勝成は豊臣秀吉(とよとみひでよし)の味方についた父と戦うことになりました。勝成は徳川家康の軍勢として豊臣秀次(とよとみひでつぐ)の部隊を攻撃しました。この戦いにおいて、水野勝成は父の家臣を斬殺しましたが、この斬殺がきっかけで水野勝成は勘当されました。

 

黒田官兵衛

 

この勘当により佐々成政(さっさなりまさ)小西行長(こにしゆきなが)黒田官兵衛(くろだかんべえ)など様々な武将に仕えるフリーランスの戦国武将となりました

 

 

 

フリーランスの戦国武将水野勝成が仕えた戦国武将とは?

 

父親に勘当された水野勝成は牢人としての生活を送ることになりました。数多くの武功を上げていたため、多くの武将から声をかけられていたと言われています。

 

数多く声のかかった武将の中で、最初に仕えたのは佐々成政です。当時、佐々成政は肥後国の熊本城主でした。佐々成政の家臣として1000石で召し抱えられました。勝成は肥護国の一揆の鎮圧に貢献しました。佐々成政は切腹することになり、水野勝成は佐々の後に熊本城の城主になった小西行長に仕えました。佐々成政の後、豊前国の黒田官兵衛に仕えます。

 

黒田官兵衛のもとを離れると、熊本城主となっていた小西行長の家臣として1000石で召し抱えられました。小西行長のもとを去った後、加藤清正(かとうきよまさ)立花宗茂(たちばなむねしげ)など有力武将に仕えますが、短い期間で出奔しました。

 

 

勘当が解かれ、徳川家康の家臣に

徳川家康

 

仕えていた武将を転々と変えてきましたが、1598年に水野勝成は徳川家康の取りなしによって勘当が解かれ、家康の家臣となりました

 

石田三成

 

1598年は豊臣秀吉が病死し、石田三成(いしだみつなり)と徳川家康との対立が先鋭化していました。1600年に水野勝成の父が殺害されました。勝成は父が殺害されたことにより水野家を継ぐことになりました。勝成は関ヶ原の戦いに家康の命令で直接参加していませんが、大垣城を開城させました。1601年には日向守となり、水野勝成は「鬼日向」と呼ばれるようになりました。

 

真田丸 真田幸村

 

1614年と1615年の大坂の陣では、真田幸村(さなだゆきむら)の突撃によって徳川家康の本陣が危うくなりますが、幸村の退路を断つなどの活躍を見せます。他の戦いで苦戦している徳川方の部隊を助け、撃退したと言われています。

 

大坂の陣の後、郡山6万石の大名に、1619年から10万石の大名として福山に入りました。3代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)にも仕え、島原の乱の鎮圧のために6000の軍勢を率いて向かいました。

 

島原の乱では、勝成は息子の勝俊(かつとし)と孫の勝貞(かつさだ)とともに出陣しています。原城を落とす活躍を見せました。1639年、水野勝成は息子に家督を譲り、隠居しました。1651年に死亡しました。享年88でした。

 

 

戦国時代ライター オフィス樋口の独り言

三国志ライター オフィス樋口

 

今回は戦国時代のフリーランスの戦国武将・水野勝成について取り上げました。水野勝成の逸話と言えば、武功を上げながらもフリーで色々な家臣に仕えたことが挙げられます。フリーランスの元祖といえるのかもしれません。他に水野勝成の逸話として、息子・孫と3代にわたって島原の乱の軍勢に加わり、戦っていたことが挙げられます。水野勝成の他に60歳を超えても現役で戦いに出ていた武将に注目したいと思います。

 

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自己紹介:フリーランスで予備校の講師をしています。 歴史が好きで、予備校では主に日本史を指導しています。 センター試験の点数を40点台から80点台に伸ばした実績があります。 好きな歴史人物:徳川慶喜(理由:多趣味であることが共通しているから)

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