今回は服部半蔵の都市伝説として松尾芭蕉を取り上げます。これまで服部半蔵と松尾芭蕉は同一人物であると言われています。この記事では、前半で服部半蔵と松尾芭蕉の生涯について取り上げます。後半では服部半蔵と松尾芭蕉が同一人物であるという都市伝説について紹介します。
服部半蔵とは?
これまでの記事では、服部氏を伊賀国出身の伊賀流忍者の首領を務めた一族として紹介しました。服部氏は徳川家康の祖父の代から仕えてきました。服部氏の当主は代々半蔵と名乗りました。また、忍者を思い浮かべる人が多いと思いますが、初代だけで二代目服部半蔵以降は忍者ではありません。
徳川家康の家臣として有名な服部半蔵は二代目で、本名は服部半蔵正成といいます。1542年に三河国に生まれ、徳川家康の家臣になると伊賀忍者頭領に任命されました。1582年の本能寺の変後、堺に滞在していた家康ら一行を伊賀の山々を越えて脱出させたに成功し、三河国の岡崎に帰還させたという功績で有名です。1597年に二代目服部半蔵は病気で死亡しました。三代目服部半蔵は正就が継ぎました。
松尾芭蕉とは?
松尾芭蕉は1644年に伊賀国(現在の三重県伊賀市)に生まれました。1694年、大坂に向かう途中で、病気で倒れ、死亡しました。俳人として全国を旅した人物で有名で、俳諧を和歌と芸術面で対等な地位に引き上げる功績を残しました。
主な著書として、1689年に江戸を立って東北・北陸地方をへて美濃国大垣に至るまでの紀行文である『奥の細道』や関西地方から阿波国までの紀行文『笈の小文』が挙げられます。
都市伝説「服部半蔵と松尾芭蕉は同一人物」は本当か?
二代目服部半蔵は1597年に死亡していることや松尾芭蕉が1644年に生まれていることから同一人物ではないという結論に至ります。
三代目以降の服部半蔵が当てはまるかもしれませんが、三代目以降は服部家の本家が改易となり、分家が桑名藩家老として幕末まで続きました。桑名藩家老の立場で全国を旅する可能性は低いと考えられます。なぜ松尾芭蕉が服部半蔵と同一人物であるという都市伝説が出たのでしょうか。松尾芭蕉が俳諧師として活動していた頃、1年おきに大名が江戸と往復する参勤交代が確立した時期でした。大名の妻子は人質として江戸の藩邸に留まることが義務付けられ、自由に江戸から出ることができませんでした。
人の出入りを監視するために関所で通行手形を見せなければならないことから容易に移動できませんでしたが、松尾芭蕉については手形なしで移動していたといわれています。江戸幕府と何か関係があったのではないかと考えられます。
二代目服部半蔵と松尾芭蕉の生まれがともに忍者で有名な伊賀国(現在の三重県)であるということです。1582年の本能寺の変後の伊賀越えで、服部半蔵ら伊賀衆と甲賀衆が活躍したことから徳川家康が厚遇したといわれています。松尾芭蕉が伊賀衆または甲賀衆の子孫であれば手形なしで全国を旅できたのかもしれません。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は服部半蔵と松尾芭蕉が同一人物であるという都市伝説について取り上げました。服部半蔵と松尾芭蕉がともに伊賀国の生まれであることや松尾芭蕉が全国を旅していることから忍者であり、同一人物であるという都市伝説が定着しました。
よく知られている服部半蔵が二代目で1597年に死亡していることや松尾芭蕉が1644年に生まれていることから同一人物ではないことが分かります。三代目以降の服部半蔵については本家が改易になっていて分家だけ残っていることから同一人物である可能性が低いといえます。
参勤交代で移動が厳しいにもかかわらず、なぜ松尾芭蕉が全国を旅できたのか分かりませんでした。なぜ芭蕉が全国を旅できたのか気になりますが、このことについては今後の研究に注目したいと思います。全国を旅したということで、徳川光圀の家臣の助さん・格さんや伊能忠敬にも注目したいと思います。
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